30.風流空手 風流曼荼羅 と 実技・三位一体

2019/03/21 公開
2019/06/28 差替


 延々と、愚にも付かぬ空論の続きとして、和道空手の技法解析は中々収束し難いが、形(形・基本組手)の遣い方、基本的な意識と操作を考へる。

☆☆自然の摂理

 ☆個・群・会

 他編の諸々で、事物の発生過程記述から、一つの思考を選択する。

 生命体が、個から群を経て会を構成する処を考へると、個と会には意志の解離が在り得る。

 其処では、会を進化した一個体とする観点が在り、構成する個々に個体としての意志は無しされる。

 構成個体自体には、意志無意志の何れも共存出来るが、群に意志は無く会に個は無い。

 此は、生命体の、発生と類似で在る。

 会を構成する個は、意志を放棄する事で会の特異性が構成され、此処には本質的に群と称する無目的な集団は無く、個の存在は否定される。

 此処では、全てが共働で何等かの方向性を持ち、個々が特異的な働きを担う。

 唯、組織を構成する多くの個は、予備としての存在で寿命が尽き、存在を終へる。

 ☆自然界の傾向

 自然界には、多様な存在が在り、其々が在る範疇で存在し多くに何等かの共通な傾向を持つ。

 其処に、広狭は意味も無く数知れぬ程の螺旋状(連続的)で、段階的な分類を観る。

 其の中で、我々が和道空手として錬磨する格技は、相当に狭い範疇の端末的では在るが、先ず其処を基点として生物界をを観る。

 詳細は扨措き、生物の反応と動作の一般的な対応を考へ、感覚と反応で分類する。

 概略、人間界に類似な生き物として、獣類や昆虫等の感覚を観、又人間の定性的な行動や感覚は、当然人体を基準とする処が妥当で在らう。

 諸々の事象は在るとしても、生存過程の内容は凡そ理解されるので、此処の概要に所謂五感を取挙げる。

 特に、必要とされるのが時空間での遠近感識別が、生存に係わる大きな問題と為る。

 人間の観る、定性的感覚は当然人体を基準に置く事が妥当で、感覚的な基準値として時空の遠近に拠る概略を察知したい。

 時間と空間の、隔りを併せた感覚が、最も必要とされる処で在る。

 動物の、反応感覚は重力を原点とした自然の多様性に支配され、基本的には其れに見合った生態として反応する。

 ☆自然界の力学

 自然の、傾向と分類の様に、理論的分類も多様な段層が在る。

 其の中での、末端に和道空手を観て此処の力学的な部分の解析を試みる。

 主たる内容は、彼我の相対的問題で在るが、感覚の空間距離と媒体の伝播速度が問題と為る。

 次いで、物体の変型・移動に因る仕事量(含熱量)を、躰内外の反応と消費の効率に観る。

 基本的には、人体で在る自身と、自他の相互作用が在る。

 力学的には、等速度運動と加速度運動の認識が重く、重力の元で発生した場の宿命で、総てが其の元に支配される。

 其処から、多様な条件の下に其の内容を観る。

 運動に関しては、等速度運動は静止と同等に受取られ、平常又は日常と為る。又、加速度運動は異常又は非常と受け取られ、異物の対象と為る。

 特に、問題と為る処は、平常と異常の識別不能な脳・神経に拠る判断の対応で、難解な感覚で在る。

 其の難解さは、補償の予備に在る無駄の難解さで在らう。

 極一部が、補償に必須なので在り、多くは無為に寿命を終へる、無駄の必然なので在る。

 会と言ふ、組織体の実態は有効な無駄の集合体なので在る。

 此に関しては、自己内外で識別される意識と仕事量(含熱量)との問題が、多様に関わって来る。

 組織体の存在補償は、一箇所に十倍の無駄が在るとして、二ヶ所に百倍三箇所に千倍…と為る。

 動物、特に人間は何と言っても脳・神経に支配される伝達と思考に因り、自身にも支配し兼ねる処が多く、多様な経路と時間に委ねられる。

 他編でも記した、囲碁・将棋に在る遊戯の一元世界を、兆京を誇る人工加算器に由る二元世界の道具に支配され、委ねられる社会に在る現代社会は益々難解で在らう。

 原点に、人間は生死から始まり矛盾・虚実・愛憎・欲望等々、次々と発明した二元性を当嵌めた利便性に取込まれ、全てを処理する不連続世界として限り無く細分化を目指す無知が、混迷を誘う。

 此処に、自然界の本質を人間の無知が、知識で排除すると言う不都合部分が、交錯し混乱を齏す。

 豊富に有ると自負する微塵の如き、知識としても心理的・力学的な日常の、微細な此の部分でさへ認識に乏しく、交錯し判別し難い処と為る。

 先ずは、人間が豪語する知識が微塵にも満たぬと言ふ謙虚さは、必須としたい。

 細分化した未知数を、より細分化し無意味に抱込み己好みの該当に解を当嵌める。自身では、当然の事と見做し、不明は大小に拘らず無視する無知・無謀の幼児感覚が、難点で在る。

 ☆数量(時間・空間)

 我々の、日常的な数(数値・数量・時間・空間等々)の把握出来る、感覚は概ね三桁程度と考へられる。

 此の感覚は、人間に在る卓越した値らしい。

 他編に記した如く、生死の発明から来る二元性への固執と、誇示からの要請は人類の滅亡する迄続き、輪廻で尽きぬ処で在る。

 此処で、何とか一桁程精度を挙げられぬか、足掻いているのが此の格技の世界。

 無機的には、多数の加算器を並べ立てれば、精度向上は簡単と馴れ切って居る様だが、流石に此の場には持出せ無い。

 無機的世界では、日常的に多用されるが扨自身を加算器として酷使も出来ず、又此が無いと何も出来ない人間と為る。

 多様な、無機質世界では一桁程度の、精度向上は簡単に済ませられる処でも、有機物の生命体が感覚を一桁上げる事は本来不可能に近い。

 多寡が、三桁程度の世界に、一桁の上乗せが至難なので在る。

 必死の錬磨を透し、多様な感覚を統合してやっと一桁程の精度を増す事は考へられるが、容易な事では無い。

 生命体にとって、格技の修練も此処に至ると観られるが、事物の観測・感知・反応等の精度を挙げる事は如何程の難事で在るかは、表現の仕様が無い。

 此処は、格技のみ為らず様々な学習・経験を経、時を擦り減らし培はれる処でも在らう。

 其等を、習得するには思考を駆使した知性(知識・知能では無い)的な感覚の学習は必須で、脳神経の総合的な統一学習が必須と為る。

☆☆形(形・基本組手)

 形・基本組手の技法と操作。

 ☆格技の操作

 五感に拠る、時空(非常)の把握と仕事(内外力・熱量等)の用法が必須。

 大雑把に、直接時空の間を知る非常事態には、視聴覚・触圧覚・味嗅覚の順程度で、恐らく感覚媒体の伝達時間と到達距離に拠ると考へられる。

 格技としては、密着系・離隔系を問はず、先ずは対象との間(時空間)を認識又は観測に在り、非常性は遠近・強弱で自明の処で在る。

 其の限界は、恐らく相互の感覚と作用の速度に拠る接触前後の処に在る。

 ※→距離は凡そ尺寸分の程度時間は石火←※

 ※→転位には最大10[m/s]で1[m]以下を平均値として其の半分以下程度が1[尺]←※

 ※→断続的視聴覚は10[Hz ]以下程度と観る←※

 ※→・認識感覚は1[m]を100[ms]程度以下の三桁程度、凡そ一歩以内←※

 ※→・人間の限界は、転移に10[m/s]以下←※

 ※→・視聴覚では、視認は0,T[m/s]・断続は10[Hz]以下程度と見做す。←※

 所謂、触れる寸前から触れて抑へられる処が限界と観る(相互の限界程度)。此処に、尺寸分の距離と、石火の時間に目安が在る。

 ※→寸止は約3[p]・一分の当ては約3[o]程度の距離・石火の時間は残像の間とでも言へる←※

 ☆此処に、近代迄の日本的な武術感覚、格技の稽古に境界を見出だし、空手術に示された限界を観る。

 其処で、稽古の間を観ると、対峙する原点所謂“間”が観へて来る。

 和道空手の流祖、大塚博紀師の言外に含まれた意識・意味を読取りたい。

 師からの教示では、力を抜きなさいと如何程言はれた事か、数知れず。

 其処に、和道空手の稽古、そして師の求めた組手の原点が在り。

 形・基本組手の稽古も、其処を観る処と為る。

 此の間は、何れの格技も同様に在り、当然和道空手にも同様に在る。

 此処が、異なる次元への通路とも考へたい。

 自明の事乍、具体的な接点を以下に観る。

 最接近は、触れ・抑え・殺す等、一連の技法所作は全て此の間から始まる。

 其処に、距離を拡げて安全を確保する。

 格技の稽古は、近位から遠位が妥当と考へられるが、逆でも可かは個人の意識とする。

 危急度としては、近から遠が一般的と観る。

 稽古は、触れてから観るか、観てから触れるかか共言へる。

 其の後、抑へに入り躰を殺す等と為り、勿論他との離脱する間も要する。

 師は、常々力を抜きなさいと、教示されて居られた。

 前述の如く、其の意を汲む意識が無いと、理解に苦しむ処と為る。

 地球上の自然界(重力場)での生物は、如何なる動物も動きの終始は同質で、出来得る限り速度変化を少なくする日常が妥当で、動きを察知されぬ原点と為る。

 其処が、必須で互いに其の場に生存出来得るし、生死の境界でも在る。

 唯、其が出来ぬ場合は、雑音を撒散らし撹乱する事が一策共為る。

 併し、此は上策と言へず、個の自然な摂理とは掛け離れた不自然さ、所謂人為の智恵を不自然に用いる、過誤を感じる。

 此は、現代社会に於ては日常的に用いられる欺瞞の手法で、四桁以上の雑音に埋めると人感では、容易に解明出来ぬ処で在らう。

 現代社会に於ては、常に静謐を保てる訳では無く、自然界は其相応に変動するが、人為的な感覚の非常は在る。

 極短時間に、必要な速度変化を要求される場に対応する事は、咄嗟の範疇に入るが、此処が格技の所以で在り、必須の事で在る。

 具体的に、非常には加速度と力を如何に加減するかと為る。

 実は、此処に相反する要求が在るので、数多が苦慮する処と為る。

 力・仕事と、其の内容に意識を配り無駄を避ける処に自然界の摂理を観るが、人間丈が其の域を逸脱する欲望を持ち、他の構造物に委ねる手段を我物として行動する。

 ※→此処から、一部論を外れ人間社会に拠る、崩壊が始まる。

 武闘に於ての発明は、投石から始まり銃器等諸々、所謂“矛盾”の発明が其の典型と為り、有機体の手を離れる。

 近未來、人間社会は社会経済闘争の混沌に至り、雑音に拠る隠蔽が主で有機無機の識別も無い、謂わば真偽も実態も無い電磁場を操る丈の空虚な無為の元に、消滅に至る。何れにせよ、闘争の本質には何も無い。←※

 ☆身体内外の力

 格技として、力を入れると言ふ内容を考へると、自身の身体を固める力と速度変化を得る、力の用途が異なり其の識別と加減が難解な処で、師が特に苦慮された処で在る。

☆☆技法の原点

 ☆彼我の間

 先ず触れる、全ての動作は其処から始まる。

 実は、五感の視聴に関しては選り遠隔の情報としては必須で在るが、其より近々の非常に対応する事が生死に関わる部分としては、必須な対応で在る。

 其処の、間を読む。此は、恐らく全ての格技に共通の処で、非常の動きには過大な加速度の下での仕事が必要だが、接触に至る迄は対象に加(変)速的な変化を観せず、接触以前から衝突時点迄に減速する弾丸様の変化は不要としたい。

 此処に、難関が在り、力を使う時に其自体に使用するか、加速に使う力が目的なのか、脳の瞬時判断が難しく多くに、識別の誤用又は無駄が生じる。

 此処の時差は、日常に於ては非常に少ないが、石火の間では急速で在り、格技に於ては致命的共為る。併し、日常の無心な所作は意外に速く、石火の速さでも在る。

☆☆載せる[三位一体]

 ☆[位・躰・技]

 ☆[束・先・備]

 ☆[触・制・極]

 等と、対象の動きに自身、特に前腕から入り載せる意識は有効で、日常的に慣れて置きたい。

 非常事に、束で躰を遣ふ処に、先と往しが遣へる。勿論、躰での歩行は必須で在る。

 ☆極め(実)

 極めは、往なしの中で其の侭、力(彼我)を体重でで遣ふと、投げや極めに繋がる。

 ☆痛覚(虚)

 極め又は往なしの過程で、抑へ又は虚を作る為、瞬時に痛覚を与える事は非常に有効で在る。

 ☆師は、三位一体として転位・転躰・転技の三転(転移)を一体として遣うとされた。

 同様に、束・先・備の三意(意識)も、又触・制・極の三制(制御)も其々の三位一体として遣う事に、そして其の三位一体も又、転・意・制の三位一体として遣う。

 要するに、格技は躰躯全体が時空に統合され、同期した自然の所作として遣う事で在る。

 ☆基本操作

 ・突・蹴・受・払・返・捻等々、上肢のみを多様に遣ふが全ての操作は、人体全てを剛体とせず柔体とし乍遣ふ事を原点とする。

 例へて見れば、石・水棒・鞭何れでも対象の、破壊は出来る。

 相互の、弾性率・弾性変化・弾性限界等々と加へた仕事量(含熱変化)等、多様な因子が働く。

 石・氷を割る時、鶴嘴で只力任せに打込んでも
細かい粉が飛散る丈。又、氷雪に埋もれた鋼板の防護柵は、半年程の日常的な圧力を掛ければ、捻曲げられで終う。山脈も氷河も、長い時間を掛け乍流動し、岩石をも削り取り破壊する。全て、適度な時間と力を掛られると、破壊される。

 破壊の、過程と感覚の意識は、必須としたい。

 此処に、空手術鍛錬に用いられる用具の巻藁は、非常に良い用具で在る。唯、力任せに叩かなくても、確り握った拳でジワリと押込む感覚で、日常的に使ふと空手術に合った拳と極の、強さと感覚が得られる。

 日常的に、形と拳を錬磨する事は、稽古の芯と為る。

☆☆形(形・基本組手)

 様々な、思考と試行の下で和道空手の技法が、熟される事を念頭に稽古をしたい。 

☆☆基本組手

 形は、格技の稽古としては中々対人感覚を掴み難い。其処で、対人の形態を執る実践的な稽古として、基本組手や自由組手を採る。只、自由な組手の稽古での危険性を避ける為、攻防の形態を想定する。併し、此は真剣勝負を想定するので、攻防は本来自由組手より厳しい組手稽古共言へる。

 自由組手は、無差別な攻防なので危険性は厳しいが、攻防の前後を意識すると当然動きは軽く浅く為る。勿論、故意の打撃は傷害を齎すので論外。何れにせよ、其の前提には確実な制御の技法として、寸止めが在り此は絶対的で在る。此処には、規制に拠らない“礼”が必須で在る。

 此の厳しさは、大袈裟に言ふと命懸の“心”で在る。此の、礼を知る者にしか自由組手は許され難い。

 基本組手は、自由組手を前提とした、真剣な攻防の稽古手段としての形態で在る。

 攻防の、形態が決められて在るので、自由組手と異なり安易に為り勝ちで在るが、実はより厳しい実戦的な稽古共言へる。

 極論すれば、受・捕の取決め自体不要で、基本的に受身は寸止の意味は無い。捕身は、確実に対応し寸止は必須とする。本質的な前提は、真剣な往なしで在らう。

 往々にして、立会った受・捕自体で、構へが異る事は在得無い事を知りたい。

 但、受身の攻めが当たる様なら、確実な寸止は必須。捕身は、全て確実な寸止は必須で在る。

 受・捕共に、前提として逃げる意味は全く無しに、先を取る事を必須とする。

 又、当てゝ構はぬ非礼は許され無い。

 此処にも、当然寸止めと言ふ礼の一端を根底とした、稽古が在る。

 基本組手には、数少ない二・三形態の技法で止め、際限の無い攻防を止めて在る。

 又、技法交換は形態終了で、終りと言ふ訳では無い残心を持つ意識が、礼の心で在らう。

 本来、真剣勝負で在るので、一技の前後又其のの内に多様な技法が含まれる事を、知ら無ければ為らないし工夫は必須で在る。其の上での、真剣勝負と弁へ無ければ無意味に近い。

 師は、多くの人を育てゝ来た。気に染まぬ人も気に入った人も、技法で駄目(異なる場合も在る)とは言はず、特異な技法をも個々人に合はせて指導された。

 極論すると、全く同じ弟子は居らぬと言へる。

 只、共通して師の言辞を守り、理解出来ぬとしても其処を目指した、稽古が在る。其処に、和道空手の本質を読取り、温故知新で形(形・基本組手)の稽古に臨みたい。

 ☆礼

 自然からの、畏怖を元とし総てに“礼”は必須だが、取敢へず此の部分での基盤を記す。

 詳細は、別記する積もりだが、寸止め・一分当て(急所不可)は、絶対的な礼の部分とし、其の上での、基本組手稽古で在る。

 原点に、受捕は規制せず、互に突蹴は止めぬ事。

 但し、当たる感覚の時は、確実な寸止・一分当ては必須で、違反・反則等は無い。

 礼に悖るは、死の覚悟共考へたい。

 昔、師の突きが掠めた折、大変恐縮された事が在る。

 己の不備を、師が負われ謝り様も無く、大変な失礼をした事が有った。

 礼は、全ゆる場に存在して在る。

 ☆一本目から十本目迄と在り、各本目毎に書こうと思ったが、前述の通り一手が千変万化なので記し切れず、一緒に稽古する中での実技変容出来る技法を遣ひたい。

 其々の処で、受捕に先後と同期を想定し記しても、対応が十処か百をも越へる様だし、若干の時差と其の前後の対応の技法を入れると、際限が無い程て在らう。所謂、千変万化と為るので諦め、場に応じた技法で対するしか無い。

 規範に、近い部分は記したので、其を本に各々の得手を各自の工夫で活用する処が、稽古で在る。

 形(形・基本組手)は、再三記した様に個々が各人各様の得手を熟し、伝承は平均的な形又は型を遣ふ事が必須としたい。

 技法の、解析に関しては形(形・基本組手)の解説・解釈が全く不充分で、早急に改定・増補の予定。

 以上、[い]〜[と]迄で、此の編を一区切りする。 槇
 


 

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