25.風流空手 風流曼荼羅 ろ 知性・理論

2019/03/21 公開
2019/06/28 差替


 風流曼荼羅の原理は、古代から現代そして近未来に人類が滅亡する迄は、通用せぬ内容と言へる提示で在る。

 此は、空論又は理解不能な仮説として、現代社会では通用し難い内容を記したが、風流曼荼羅の延長線上に在る風流空手の、格技として解析をし其処から社会の多様な事物を探る試みでも在る。

 現今の社会は、如何にも高度で複雑怪奇な難解と思はれる世の成立だが、実際は無意・空虚で知性に乏しく、子供騙しの猿知恵で動いて在る。

 言語・書画の発明される以前には、紛れの無い群で基本的には意識と異なる行動表現は無かったで在ろうが、社会と為り組織統一の為に個の思考を消去する事と為る。

 其に応じ、共通の指示周知の為に伝達方法の発明が為される。

 此処に、発声から始まり記録法を発明し用いる社会と為り、他に意識や行為を限定的に周知する方法として、記録が発明され、此が文明の発端共言へる。

 個が群ると組織を構成し、方向性を持った社会を造る。其の目的は、意味も解らず単に構成を崩壊させぬ為に、構成部分を犠牲にして巧妙に生き残り、増殖する。

 単に、無意味な増殖をし乍、種の保存に生命活動を為す。

 其の意味は不明だが、個々の思考は消去し集合体としての社会を、増殖と延命に全てを注ぎ込む。

 其の中で、恐らく人間丈が特異的に意識を持ち、増殖・繁栄をする。

 目的は、単に種の存続で在り他の全てと何等変わらぬ、生存で在る。

 唯一無二らしい個の、存続と種の繁栄を此も意味も無く、勝手に決めた生死の二元を発明し設定し本能的な欲望の下に、多様な手法を発明した。此の原点は、生死の発明に在る。

 本来、個の発生から存続が、より有利な共存での集合体を形成しての社会と為る。

 社会の発生から、其の保存に優位性を保ち、弱点を見せぬ為に個の思考を消去する。

 此処に、所謂騙しの発明・発想が在り、社会性確立の原点と為る知識の、集積から文明が在る。

 世の常として、基点を日本に於いても階級制度を作り、秘事を支配者丈が把握し社会を構成・確立する。

 現代社会に於いての、階級制度は選り多岐多様に存在する。

 此が、虚偽と称する虚構の発明で、社会構成・階級制度の発端で在らう。

 手法としては、現代社会に溢れ返る宣伝と言う騙しで在るし、他に知られぬ部分又は全体の社会構成の原点共為る。

 此の書き物自体も、其の範疇に在るが基本的に社会経済を担う意識は無い。

 扨、此等の裏に発信された偽の内容を探るのも、遊びの楽しみで在り此は囲碁・将棋に通じる娯楽でも在る。

 只、此を兆京の記録を借りて争うと為ると、事は遊戯・娯楽と異なる世界に至る。

 現代に於いては、無知な痕跡を恥とも感ぜず、社会に残す亊物は限り無く多い。

 真・偽・礼・義・恥等々、言辞を消去する処と為る。

 此の原点に、民主主義と称する理想的な治世法に因り選ばれた治世屋達が、三権分立と豪語し立法・司法・行政と挙って国家を崩壊に導く事と為る。

 日本語は、近未来に全て音声のみの意識標示に換わり、国境を無くした地球上は昆虫の群と為る。

 悲しい事で、個性個性と喚き乍、無個性・無意識・無生物集団(集団自体が無個性・無機質)と進化を目指す。

 一見、筋違いとの指弾も在らうが、世を挙げての競技会等での選手の宣誓とかも、全く的外れの偽を象徴する確認行為で在る。

 少し掘下げれば、本来は競技者の行ふ意味は全く無く、判定者が為す巾行為なので在ろう。

 此処に、知性の無さを披露する又はさせる等、自明の事を知らぬは無知と為る。

 因みに、競技者集団が対象不明の場に向けた宣誓為る言辞を述べるが、全く意味不明で虚空に発散する、単為る気体の振動で在る。

 規制の無い、自由な遊技会なら開始終了の連絡程度で充分で在る。

 隠れん坊や鬼ごっこなら、勝手に止めて帰って仕舞う事は日常茶飯事。

 併し、規制された競技なら、公正な其の場の判定者が集団に向けた宣誓(宣言では無い)は、必須共言へる。

 此は、競技者集団が判定者に依頼する事項で在る。規則・規定違反を監視・指摘・指導する能力を持った者が、信頼に基き依頼される巾、判定者で在る。

 判断の、全てを委ねられた人格に拠る資格の上での責任で明示される。判断出来ぬ場合は、存在し得無い。

 只、現代社会に於ける、競技の本質的な意味が不明(実は明確)で内容の理解に乏しい判定者は多々見受ける観は在る。

 特に、視認点の多い競技は、誤認が多いので資格と資質の解離は多様で難事。

 最も、視認数の少くない場合は一点。其でも誤認は在る。

 多くの競技は、二点視認で典型的には相撲が在る。

 此処では、非情な判定を要求される。日常的に、何れかに判定をする事と、形式的であれ誤審は腹を切る。

 扨、三人以上の競技に格技は除き、恐らく最多の視認を要請されるのは、空手道競技の八点視認で在ろう。此は、不可能に近いので、心して資格の行使をしたい処で在る。

 多くに、外部の圧力で例へば観衆や有力者の圧力、延いては国政選挙並の知名度で判定される事は日常に近い。

 勿論、此処で判定者の資質が問へる処も在り、此処には資格を与へた場の責任をも持つ巾は当然。

 本来、競技者は全く責任を負う立場には無く、其処を判断する事が仕事の全てゞ其の可否を判断するのが判定者の責務で在る。

 多くに、資格が在れば判定出来と安易な有資格者が在り得るが、最低限の責任を負う事は日本の名を冠する空手としては“礼”に悖らぬ最低限の事は当然で在る。

 扨、本来は一元の場で在る曼荼羅に、二元の場を発明した処に収拾の着かぬ混乱が生じた。

 此の原点は、生死の発明から来る二元化に在る。

 無為の場から、生死を識別した場を決めた知識の根源は、生の実感と死の恐怖を知識の原点として発明した、二元性が発端。

 事物の、二元化に発し矛盾を根底に、真偽へと変遷。

 一元で成立つ群れは、二元化の発明で社会を構築し、矛盾を正当化する事と為る。

 此処から、言語・書画を発し真偽の記録から善悪を決める。

 此の流れから、真を消し偽を据へた日常が社会形成の原点で在り、一元の群れから二元の社会を辿り、生死・有無
 ・表裏等々の世界を設定する事と為る。

 併し、世に言う知性は、原点の一元を見失はず人間の称する膨大な真偽の知識を観分け、整理・制限出来る処が知性として存続する本来の姿としたい。

 二元化の発明で、発生した社会は世の中に生命の原点で在る一元を見失い、其を見出だす知性が在れば人類の滅亡時期を、若干でも遅滞出来るかも知れない。

 如何にも、尤もらしく特異的な進化を遂げて在るかの如く見へても、単なる知識の集積は真で在る感知は為し得ず、所謂る場を見失う事と為る。本質は、全く単純な原点で、一元の存在に在る。

 連続の場に、不連続を発明し二元から発した断点は、微塵の裁断へと容赦無く切刻み、此を文明の成果とした。

 全てを細分化させ、微細を誇張する程度の事では、現代の人為は全て退化滅亡の途を辿る観に在る。

 木や石を叩き壊し、数量が増えたと欣喜雀躍する猿か幼戯にも等しい。若しかしたら、其の屑に餌を見出した鴉の知恵なのかも知れぬ。

 世の変貌は、単に見掛けのみで進化を追って在ると言うより、自身の思込みと為ってる事象許りで、全くと言って良い程自明の事が解らぬと為る。

 表現の、比喩は若干異なるが癌細胞と同様、既存の母体に在り乍、其を喰い散らかして見失い、本体に巣喰い異常な増殖と共に失い、崩壊させて個体又は集合体を崩壊喪失する過程でも在る

 其処で、相似的に空手を題材として誤った観念での誤繆を、是正する巾処は多々在ると思い、社会的と力学的な感覚をも含め記するとする。

 先ずは、物質から生命体の発生迄は前述として扨措く。

 個体は、自身の構成を各部分毎に再生と破壊を続け乍、平衡を保ち全体を存続させる特性と、相似の増殖をし存続させる機能を持つ。併し、其の意味は全く不明で在り、単に原理で記した相似形成・寿命限界・量子概念の基に在る。

 其れ以前の、総てに関しては勿論曼荼羅から発する原理を起点とするしか無い。

 自然の中で、社会の総てを対象とした事象を直視、又其の中でも人間と他を比すると、唯一の目立った相違は其の限りには無い。只、生死の発明が恐怖の意識を創る処が知識の発現で在らう。

 其の変質が、欲望としての人智で限り無い程多岐に亘る知識と為る。

 此処には、質量の無い為で人類には感知計測も出来ず、個体の滅亡迄際限の無い貪欲な増殖が続く。

 此の原点が、微弱な生命体で在る人類の産み出した自己保存の習性で、認識した恐怖から来る。 此が、特異的に増幅拡大し特化された産物の知識で在り、人類のみが持つかに思へる特異的に発達し習得した、文明と称する自滅行為で在り、生命体に持つ寿命にも関わる生命の証で在る自滅行為でも在る。

 恐怖を、欲望に紛らわし変貌を促し文明と称して誇る。

 此の社会に、充満した欲望の涯で在る。

 恰も、癌細胞の増殖と類似で此の細胞は、恐らく自身を保存する為に際限無く増殖し、挙句の果てには母体をも喰荒らし死滅させる。

 此も、自然の摂理では在る。

 人間界でも、其の個体でも同様の経緯を辿り、社会的には良かれと兆京単位の僅かな知識を振り回し、乏しい人智の限りを尽くし必須の共生をも忌み、他を死滅させる。 結局は、共生の平衡に拠る耐性を失い死滅に向う。

 現今の、社会機構の根幹を為す社会経済構造から、当然の行方で在らう。

 原点は、原理設定した曼荼羅の連続性に在る一元性の自家撞着を無意味と破棄し、微塵の如き知識を全てと設定した二元性の不連続を絶対視した矛盾に在る。

 其の、延長線上の自然界に、身を委ねて生きる原点の文化を、崩壊に導く文明の横暴な行為が在る。

 文化が、文明に呑み込まれぬ為には、知識の爆発的な行為を制御する、知性を必須とする。

 唯、自然発生的な、自己保存としての再生と破壊の平衡と同様、自然発生的な平衡機能で在る文化の知性が、平衡を崩す文明の知識として異常増殖の粗暴に蹂躙を重ねる事実を見分けられず、知識に溺れて知性の消滅と為り人類の寿命と成長の平衡を急速に破壊、安定を保つ思考と知識の平衡の崩れが、個体・群体そして社会の崩壊に繋がる。

 恐怖を根源とした、憎悪感を変質させた安堵感を求め、知識の増大に因る欲望の仕事・熱量を人類の知性では制御する能力に欠ける処で在る。

 結局、生命体維持の原点で有る恐怖心が、特異的に進化し個体から始まり其の集合体迄に進化し、個体・組織体共に崩壊する自身由来の恐怖心が欲望感覚で、其が謂はば人類の称する癌細胞に因る自滅行動と相似で在る。

 此を、統合し知性として制御するには、相当強固な思考力と生命力の平衡を持つ知性が必須で、此処が人類全体の寿命に関わる。

 恐らく、人類のみが特異的な進化の延長線上に感知した、死の恐怖を知識の記録する処で在ろう。此の、延長線に発声に次ぐ言語の学習記録が在り、此が律と舞の伝承と為り、次いで記録としての画と字に続く処と為る。

 フィンのカレワラやアイヌのユーカラの様に、当初は手振や音振での伝承で瞬時に消失するが、強い意志と学習に拠る脳への記憶に継承を委ねられたが、永続的な伝承法として図画や文字に拠る記録と為る。

 此を、持た無かった時代は脆く、占拠・崩壊に至り易い。

 言語が、文字として記録されると共に、恐怖心をも記録・伝播・拡張される事と為る。

 恐怖の伝承は、言語・彫刻を経て知識の伝承とし、文字は文明の原点で在る。基本的に、文明と増殖の起点で在るが、知性の制御が必須と為る。

 此処に、人類のみが文化の痕跡を消去する原点に文明が在る。

 象徴的には、西欧の古代神話伝説に在る、天空に至る巨大な塔の建設を挫折させるに、其々に異なる言語を使はせて分裂させ、企画を頓挫させる。

 彼等も、自身の存在に恐怖を抱き異なる世界の安泰を謀る事を成したので在らう。

 共同作業は、言語と言ふ拠り処に破壊力を見出し、与へられた発明で難無く崩壊する。

 又、逆に恐怖を統一するには、知識の伝承を確立すれば良い。

 国体を統一維持するには、先ず言語を定め次いで度量衡の統一が簡便。

 其処に、財力の偏りを造れば一気に崩壊出来る。

 逆に、崩壊させるには言語の分割に次いで、計量基準の操作。

 此等を用いての、賞罰に依り欲望と恐怖を煽り、自身のみ保護目的への驀進を促す事と為り、其が又輪廻で滅亡に至る処と為る。

 言語の多少は、全く問題とは為らず、意図の問題で在る。

 言語の統一は、自身を恐怖心から逃れる手段と為るが、此の欲望に因る恐怖は際限無く増幅し、個体は相似構成で分割し崩壊に至る。

 現代に於いても、未だに言語支配で恐らく武力をも合わせた、侵蝕戦略が平然と続いて在る。

 何れ、此処にも総ての寿命が尽き、何れかの新たな構成が発生する事で在らう。

 扨、凡ゆる構造体は基本的に数個の単位が最も強固に安定する傾向が在る。併し、進化の過程は留度無く増幅、崩壊の途を辿る。

 生命体を取り上げ、又人体を見ても単一の細胞が複数の組織体を構成、億兆単位の多様な規模の細胞が協同で組織を構成する。

 幸か不幸か、兆を超す細胞集団が互いの利を意識出来ずに存在する処に、長期の寿命が在る。

 処で、他はいざ知らず、流祖の和道空手に於ける形に関しては、基本も基本組手も結局は全てを“形”と称しても可としたい。

 其処には、多様な技法も唯一つの形に、又唯一の技法も多様な形と変幻出来る。

 唯、本質を弁へず言語の内容を、勝手に刷替へる無法は不要。

 幾許の事例を挙げると、大した罪の無い処で、一所懸命が同意語として一生懸命と為ったらしい。が、本当に同じ意味の言辞なのか確認する巾でも在らう。化物と幽霊が、全く異なる存在と同様なのか疑はしい。

 何気無く、体育をスポーツとする為政者と主権者と称する大衆に共通の理解で、同意語の理解なのか他意語として在るのかの理解は疑問で在る。

 同じなら、何故変へるのかの確認は為す巾で在らう。

 確実に、全く異なる意味と理解出来る又は出来ぬ処に、多くの知性欠如を観る。

 前記の、長年言辞と武力が強大な国と圧力に屈せぬ小国の知性を、見守りたい。

 空手界では、本土渡来から昭和三十年代頃迄は“型”で稽古をする事が本来で在ったらしい。

 唯、和道空手の流祖大塚博紀師は、数多の空手家が型を稽古するの中で、“形”を遣う事に固執された。

 和道の“形”は空手では無く舞踊の様で使い物に成らない等、恐らく現今でも数多は其の判断を識別し得ない感は在る。

 数多の、同門にさへ其の危惧を持つ気配は否めず、多くに形を観せて貰うとするが、型を見せる感は否め無い。

 実は、師も危惧を持たれ、余り強制はされて居られ無かった諦めは感じる。

 師は、知らない人達(人権蔑視語無き時代は女子供)には其でも仕方が無いでしょうと言はれて居られた。

 処が、日本語が猿以下の世に為り、語彙不明の発声が多様化し混迷を来して仕舞う。

 何時の間にやら、空手道界の全てに近い空手道の指導者・判定者・競技者・見物客が、型を形と用いる様に為った。

 此は、単なる字句の変更では無く、内容の変性で在るが、如何な事か数多が意味不明で用語を発して在る。

 此の社会での、事例は数多有り際限が無い。  此等が、全て不易流行と称する事か疑はしい。

☆☆形に関する事

 師は、“形”に固執されたが、私見を記す。

 ☆形

 和道空手で、師は心技を無数に遣うと意識されて居らた。鋳型の型は全く狂いの無い型で在り、人形の形は自在に変幻出来る形との比喩が在る。

 数多の門弟を、全て同じ指導では無く個々人に合った技法の習得をさせて居り、此が個々人の癖では無く師の正統的な空手と分離した処が在る。(表現として個々に良い癖を付けなさいとしたが本来癖は悪い意味に使わて居たの注は在る)

 ☆形の稽古

 形での、稽古に当って、一つの形を一回遣るのに三十秒掛けるか五分掛かるか、目指す処は同じと思はれるが、又或意味では異なる意味を持つ。

 其れとは別に、形は偏りの無い万能の用法を持つ稽古法で、所作・操作・目的は固定されては為らない。

 ☆形の用法

 形で、一つの所作は当然、固定された型では無く多様に変化させて遣う巾とする。

 ☆形の原点

 空手は離隔系の格技と考へられるが、和道空手の原点は密着系の柔術に在る。

 本来、格技は全て、離隔・密着の識別すべきでは無い。

 師は、和道空手と銘打って敢へて離隔系の格技を表現されたが、各所作と其の遣い方は柔術其物と観られる。

 ☆稽古

 主として、稽古を基本・形・基本組手・自由組手と便宜上分離して在るが、当然識別する巾内容では無い。

 只、形に多様な形態が観られる事は、自明で在る。

 ☆認識

 数多に、形其々を別物とされる観を持たれるが、稽古に依り其の識別は無しと為る。

 唯、個々人に由り形態の差は多様で在る。

 ☆変貌

 全く、微塵の如き所作として、個々の変貌は実技に拠る。

 ☆伝承表現

 形の、伝承表現は多様で在るが、附記したい事に映像表現は、本来的ではなく拠り良いのは文章記述で有ろう、次いで略図から静止画像と為る。

 現実に近い程、脳の活性化は減少すると考えられる。

 結論として、実技の稽古は欠落又は付加部分を補う為の、記述表現の読解を強く勧める。

 師は、長年に亘り言辞表現の指導書を出し得なかった。言辞を正確に読み取れず、又誤読・誤解・曲解迄在得る危惧と、当然思考内容の全てを記載出来ぬ危惧に躊躇されたと思はれる。

 又、最も気にされた事は、師の技法表現が固定化される事を恐た処と観られる。

☆☆伝承

 基本・形・基本組手と、全て規範的で在るが実技を遣い其の共通性を理解する事が口述と共に最短の道筋で在る。


 只、個々人に拠り全てに異なる事を認識する事は必要で在る。

 指導者・伝承者としては、自身の得手は扨措いても多くを含む基本的な形態を、指導・伝承する事は基本的な原点で在る。

☆☆内容

 基本・形・基本組手と、各々の例と共通に在る透した事例を挙げて観る。

 ☆基本/払受

 軸転下段払受け・軸転上段流受け・軸転上段手刀払受払い・

 ☆形

 多様な所作の、基本例の集約で在るが、多くと言ふより全ては共通と認識する。

 ☆基本組手

 全て、形態的に差は在るが、内容は同じと意識し、本質は対人の真剣勝負をする稽古。 

 ☆基本・形・基本組手

 全て、等質の稽古を形態として分類した丈で、同一と意識する。

☆☆形(形・基本組手)

 ☆形として、形・基本組手を一連の形として共通に稽古し遣う事を強く勧める。

 此は、別編に記する。
 


 

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