24.風流空手 風流曼荼羅 い 思想・原理

2019/03/21 公開
2019/06/28 差替


 風流空手として、八年八十回の集いを終へ、和道空手の稽古を起点に、個々人が何を求め何を得たかは不明。

 各人各様、求める事は多様だが、先ずは其処から観へる事象・疑念・課題の考察・解明・論議を拡張、格技に囚はれぬ自由な場を考へたい。

 微塵の如き人為を含む、自然界総ての“場”は“曼荼羅”に在り、余りにも広大無辺なので取敢へず範囲を風流曼荼羅と置き、其処を起点とした空手術を風流空手とした。

 格技は、自然界の極一部として存在するので、其処に身を委ね多様な事物を捉へ、遊び楽しむとする。

 風流曼荼羅の場に於ては、微塵にも満たぬ空手術だが此処を起点として、多年研賛した経験者許りの集いなので、特に系統立てもせず風流空手として和道空手の奥に秘められた心技を探り、其処を透し世の諸々を見据へ乍、真意・技法・解析をも究める方向性で、心技の散漫な研修とする。

 世の総ては、荒唐無稽な“風流曼荼羅”と称する“場”と設定する。

 総てを曼荼羅と置き、事物構成は相似構造・生成事物は有限寿命・事物総体は連続の場と設定、自然界の原理として、相似構成・限界寿命・量子概念とでも表現する。

 原理としては、或程度の猶予を以ての限られた条件に支配され、事物は総て其場に発する無限で多様な振動が干渉し合い、其の存在として無限の時間に無限の事物を多様な現象として齏らす。

 真に、非常識で乱暴な設定で在る。

 演繹・帰納・確率の、固定された数学的厳密さは無く、人間の精々三桁程度の感覚に、もう一桁程度動物的感性を研ぎ澄ませ載せた論で在る。

 拠り処は、量子的感覚丈かも知れぬが、拙い人間の知性を求める。

 此処に、総ての存在が在り、意味不明な時間の流れに応じ無限の存在を創出する場が、風流曼荼羅で在る。

 現代社会に於ては、何等根拠の無い暴論と断じられ、否定されるのが落で在らうが、敢て無謀な設定の元に虚実の識別も無く、総てが同等に存在すると観る。

 人間社会等、生死の恐怖に由来する微塵にも満たぬ知識を発明し、人類の至宝として傲慢に振回し、挙句は根拠も無く全て不連続の場として存続させて在るのと、何等の差異も無いと言うよりは、其れ以下共言へる認識で在る。

 曼荼羅から発する、風流曼荼羅から風流空手と辿り、此処を格技の起点として取留の無い、散漫な場に過ごす。

 曼荼羅と言う、永劫に連続した自然界に於て、人間丈らしい古来からの認識に生死を発明し、其処に安堵と恐怖を設定した。

 此処に、一元の自然界に人為の二元を設定し、人類の至宝とする事と為る。

 本質的な一元の場を、二元と規定する如何にも尤もらしい“矛盾”の発明で在る。

 連続を、不連続と表現する発明自体が何とも矛盾に矛盾した、利口な発想の発明共言える。

 此処に、矛盾を基点として全てを存在させる等、無意味な原点を設定した丈に此を否定して観る事に、何等の不当性も無い。

 総ての、本質は曼荼羅に在り、人間の思考如きは何れ“自家撞着”の一元に至る処と為る。

 人間が、連続を不連続と定義し“生死”を発明、“矛盾”を考案し、全ての起点とする論は尤もらしいが、人間社会を空転させる拠点と為る事は、当然の帰結で在る。

 曼荼羅に於ける、総ての存在は恰も鏡に光を当て反射で元の鏡に戻り又反射するのと類似の様で、無限に在る乱雑な振動が永劫に雑多な干渉をし続け、其の痕跡が事物の存在と観れば良い。

 曼荼羅と言ふ、自然界から諸々が発生・存在・消滅する。其処の、微塵の如き微細な一部に偶々人類が発生、特異的な変貌を辿ると為る。

 其が、自然界に我物顔で存在している様は、不遜を超へる。

 自然界の発振を、人類が己等の発振と思込む、現代社会の観念は愚で在らう。

 大海で、小舟に乗り水に揺らせて得意気に自慢する、幼児の姿が目に浮ぶ。

 人間は、自然な自家撞着の場を否定、矛盾を設定して我物顔に自然界をも席巻すると言ふ、斯様な場しか認識出来ぬ処と為る。

 微塵の如き、人智を我物顔に振回し、存在の無い矛盾と言う幻想を最大の武器として、文明を謳歌・驀進する。

 分別も付かず、異次元階層への螺旋状に昇降する意味を見失い、自然への帰依を否定・放棄した処かも知れぬ。

 静謐に、自然界での存在とし真摯に思考し、探求出来れば苦も無く楽しい発見が観へる処で在らう。

 己等の造った、幻想に囚われ虚無を実体と映す事は、人間丈の特権とする特異的な妄想で在る。

 人間達は、螺旋状を連続と認識・感知出来ず、不連続な階層形体でしか表現出来ぬと決定した為、不自然な人為に因る不毛が発生、其処から逃れられず混迷を齏す。

 風流曼荼羅の場を、人為で存在の否定をする不連続観の、究極は不毛を齋す。

 精々、近来は、不思議様と考へられ始めた量子観も、二元性からは脱し得ず此を引摺り乍、過す事と為る。

 人智が、自然を超へる不遜な観念を唯一として、其処を棄て切れぬと言った処で在らう。

 人間の、人間たる所以は、原点に生死の矛盾を創り出した知恵で在り、此を人類が至宝として絶対視し多用する事が、種の文化を崩壊させる知識と称する文明なので在る。

 己等の創出した、矛盾という言う埒も無い尤もらしい妄想に囚われて、進化か退化か解ぬが人類は其の束縛から、脱し得ぬ処と為る。

 恰も、現代社会を牛耳る資本主義経済の象徴である財力が、本来は此しか無い生命の起点俗に生死の輪廻を、否定・放棄し其処に付随する生の象徴とした権力を、財貨とし貝殻から金貨そして電磁波と置換、何れ虚空に散逸する処と為る。

 結局、此が自然の輪廻共言へるので在らう。

 東洋に於いて、思想的には千年も昔?の孔子時代から半歩処か蹂り出す事も儘為らず、老子が若干滲み出したかと言う程度かも知れない。

 現代に於ける、最先端の兆京を誇る素子を持つ加算器も、孔子時代の原点と何等変らぬ処で在り、量子観も老子の原点と些して変わらぬ蹂り寄った意味を含む様だが、断点の上に立てた自然観は否定せざるを得無い。

 自然界の一部に在る、数千年由来の漢方医療は現代的知識、所謂る断点を持たぬと否定され、近現代の一世紀程で西洋医学に因り微塵に打砕かれ、崩壊・消滅の憂目を観る。

 併し、自然界の連続性は奥深く保存され、時を経た蓄積の粘りとして回復の兆しを見せるかに観ずるが、量子観に無知な処に人類の自然に対する冒涜から、不遜な蹂躙が垣間見られる節は執拗。

 此は、現代社会を牛耳る経済至上主義、其儘で在る。

 現代の“経済”とは、本来の“経世済民”を書替へて、他からの財力略奪を目指す略奪闘争を意図する処と為る。

 特に、現代社会に於ては、事物の表現を書替へて全く異なる、反対の意味に摺換へる事は日常に在る。

 多くに、発生時の言辞は“真”を伝達する意味が在ったが、現代資本主義社会に於て此は“偽”を伝達する処と為る。

 虚偽・虚言で騙す事は、正当な行為と為されて在る。

 此の、元凶は将に近現代社会を牛耳る経済至上主義で在り、其を支へるのは小さな餌に在付く、民衆主義で在らう。

 此処は、際限が無いので一区切り。

 改行して、此の社会でも幸い、痕跡程度の知性は在る様子。

 時を経た漢方には古来からの、温故知新が根強く在る。

 其にしても、近来は西医が不易流行を勝手な解釈の下、安易に用い自然を畏れぬ観は強い。

 自然界の、輪廻は不明と人間様が決定する等、此の瞬間に人間様に不都合な遺伝子は抹殺し、己のみの欲する事物と特異的な増殖のみを希求する、社会機構は全て奇っ怪な怪物製造に専念し、全てを刹那の娯楽・蓄財に向ける人間のみの現代社会機構は不埒。

 人類古来からの願望は、世の常らしいが、各個体が不老不死を求め、究極は殺戮に在ると観る。

 個から群そして会へと、人類のみが意図を持ち殺戮は悪と叫び乍ら、個と会は殺戮を絶間無く望み実行する事が、断点を至上とする事が二元論の果で在る。

 奇跡的に、発生・進化した遺伝子の全ては増殖を求め、此又奇跡的に増殖を果たした個体の遺伝子は、他の全てを抹殺する事を希求する。

 何共、人間の求める自然界とは、不可解な場では在る。

 先ずは、感想程度の悪態は此程度とする。

 此処で、真摯に微塵の如き一部を観て全体を推測、無限の極一部を観て其の奥を推測する処に、微かな救いは在るのかも知れぬ。

 此も、人類の至極特異的な痕跡程度の、知性が救いで在らう。

 此処から、微塵の如き格技を切っ掛に、和道空手を勧めた流祖大塚博紀師の自在な心技を元に、修得と伝承の型造りを追ふとする。

 先ずは、当然の事乍ら、基礎体力を元に基本・形・基本組手を錬磨、自在な心技に至る過程は個々の問題で在るが、如何に此を伝承するかも課題と観る。

 世に謳う、空手道競技とは空手術の特異的な進化形態で、本質を破棄するが故の奇異を微塵以下に置く巾で、極く一部で在り此は今後も目処は無く常に模索・流転し乍、不易流行を勝手な解釈の下で、不易を破棄し流行を追う処が知性に乏しい人間の、意識無意識に拘わらず数多の持つ欲望で在り、本源は無意に摺込まれた死の恐怖に在る。

 此の、二元観を本に、突然変異とでも言へる多岐多様な規制下に、人類の至宝とする矛盾の中で特異的な増幅の不安定な増殖が、逆に本体を崩壊に導く。恰も、癌細胞と全く類似で、此も輪廻で在る。

 人類が、発明した生死の二元を原点とし、生への欲望と死への恐怖から発した、強力な欲望と忌避は表裏一体の観念。此は、絶対量は零なのに常に細分化が尽きぬ処迄増幅される、際限の無い欲望と恐怖は人間丈の性。そして、其の最端末しか考へられ無い人間達。

 発明は、相似形成の端末に観賞を求め、成ったら飽きて又奇異な不安定感を探し求め、奇怪な運動を発明し悦楽に溺れる処と為り、本質的な知性を喪失させる人為と言へる。

 現代社会自体も、“競技”と称する意味不明の狂気に、昆虫の生態様に変性して行く過程でも在る。

 個を見失った集団は、群を経て今や資本主義社会の絶頂期に差掛り、其の構成を俯瞰すると、無意識な昆虫の社会を彷彿させる。

 本質的には、現代社会思想の下での願望が、奇異奇怪な特異的進化を促す。

 生命体進化の根源が、外的障害で在る事を見失った人為は、恐怖感を取除く発明が逆に心身共に脆弱化する処と為る。

 障害を取除き、自護の耐性を見失った人間達は、他に依存するしか無い場を造り其の恐怖心と脆弱性を用い、此処に又膨大な財貨獲得の手段を見出す。

 現代社会思想の、巧妙な二元化操作の成果で在る。

 何れ、全く癌細胞と相似の、特異的進化を齏す。

 此処にも、相反する二元性の設定が由縁と為る。

 因みに、競技とは心身共に、決して自他共に傷害処か痛覚をも否定し回避すると言う、標榜を掲げ名目的な前提を掲げる事丈が不易と為るので在らう。

 只、競技者は、身を滅しても権力に換る財貨を得んとし、社会は此を経済成長の絶好な餌として、経済社会が利を貪る。

 此の本質は、古典的人身売買と同質の現代版に過ぎぬ。

 矛盾の槎轍が、究極として此処に人間を無機的な機械状に変身させ、精神世界の有機的な肉体感覚を破棄、人為の幻想を追う快楽が人類の希求する自然を逸脱した物体を欲望の代価として、娯楽に溺れる処と為る。

 此処に、又一元の自家撞着に陷り、全ての快楽が渾然一体の人為が届かぬ混沌と為る。

 扨、本来進化は耐性を齏す自然の摂理で在るが、欲望は其に反する行動に走り、嬉々として自身の弱体化を無機質の再生可能な構造物に置換、数千年過去の木乃伊と何質の、変わらぬ思考と構造での存在を希求する。

 改めて、此処で空手術の具体的な本質を、師の言辞と体技の理論的な確立で明確に伝承する事は、空手のみ為らず不易な文化として自然界での、安全網確保を必然としたい処では在る。

 無限共思はれる、自然を貪り我物とする奇異な存在の流行を、文明として謳歌し果ては自滅に至る愚は避けたい。

 此処で、格技空手術の不易と競技空手道の流行を一体として、伝承する巾処と理解する要が在らう。然し、現代社会を席巻する経済至上思想から観ると、至難で在らう。

 格技としての、空手術の多様性の保存と伝承の不易。競技としての、空手道の奇異な個体の特異的な進化と変性の流行。

 師の、和道空手としての本来的な処は、自然な所作に在り他に感知されぬ処に在ると、原点を斯様に理解したい。

 敢へて、風流空手として亡き師に許される事を念頭に、師の模索し希求されて居られたと思う理論的な解明と伝承を、定性的な解析と理論での確立を目指す。

 此の、難解な解析部分の内容は、精々大小関係程度の概念としての解析で、風流空手の研修内容を順に追い、記載する。

 前述の、基本・形・基本組手等から自由組手に至る形態は、伝承者が多様性を持つ指導内容を理解して置く巾、大切な要素で在る。

 往々にして、微塵にも満たぬ自身(含己)の技法のみを全てと、過信した錯覚の下に他を否定する事態が見受けられるが、此は単なる一個体のみの技法で、多くは特異的部分の進化で短期間に脱落し消滅する事と認識したい。

 謂はば、癌細胞の増殖に因り母体を破滅させ同時に自滅する処と、類似で在る。

 改めて、此処に日本的な心技の修得過程として、独特の家元制度と言った素晴らしい伝承形態は在るが、往々にして此も現代社会思想の主流に席巻され、平衡を保てるか崩壊に至るかの岐路とも為る。

 只、事物の善悪は、人間個々人が勝手に設定する条件なので、単なる境界条件を異動させる丈で在らう。

 猿知恵(猿に失礼)に過ぎ無いが、多くは善悪も個体の選択で有る。

 因みに、日本的な表現に、一芸は多芸に通じ多芸は無芸との表現を観る。解釈は、当然個々人に委ねる処で在る。

 風流空手を、研修とした事は技法の解析が難解で、体技と厳しい理論を含む要素が多様な為、大雑把な推測程度の理解を求めるとする。

 然し、本質は自然の所作に在り、此処には難解な所作は本来無いので在る。

 実技を透しての、内容形態には前述の基本・形・基本組手・自由組手の順を追う処が妥当で在らうが、何も固定する事でも無く、進化の果は何れ崩壊と為る。

 此処で、螺旋上に仮の原点を取り、遡上し乍自然に進化する動きの原点を、歩行に発するとする。

 其の前に、もう一歩戻ると、動物の所作は併進・軸転を骨格・関節・筋腱に拠る体幹・四肢の運動で、伸縮・捻転を行う。

 日常の所作を観ると、多くは伸縮と捻転を別個に遣うが、空手術の所作では日常的に此を同時に遣う事が特質共言へる。

 其処に、空手術に於ては、石火の場でも伸縮と捻転を同時に遣う事が求められる。

 ※→躰躯の動きに解剖学的呼称は在るが日常的な言辞とする←※

 堂々巡りとも言へる、自家撞着をし乍真の自然態に辿り着く稽古が、温故知新の途で在り不易流行と相俟って巡り、本来的な稽古の重さを実感する事と為れば、可とする。

☆☆技法概略

 先ずは、無心の立位と歩行、併進・軸転を同時に遣う協動の所作。

 此処に、空手術の起点が在り、一見何気無い動きを観るが、意外に難事な処共言へる。

 ☆立位・歩行 

 立位は、無心の直立で正面芒視。

 其後、歩行と為る。

 立位の主体は、直立二足歩行が日常で在れば、隻足が全重量を受る支軸足とし、他足は自在な巧緻の所作を遣う浮遊足の多様な操作意識を持つ。

 常に、隻足立位が日常所作の前提と為る。此処に、師の求められた足で歩かず躰で歩く基本が在る。又、前提として、足底は床面と不即不離の意識が大切と為る。

 ☆歩行

 此の、支軸足と浮遊足は瞬時の交換が必須で、一般の健常者は意識的な反応を超へ、無意識な反射以前の自然な所作と観る。

 唯、空手の稽古のみ為らず、運動する事や競技の練習自体、其を妨げる方向に働く事も在る。

 先ずは、自然の所作に、遊び慣れる事が最良で在る。

 ・静止時は、先ず自然の立位で前方芒視。此処には、動くと言ふ立位は無い。只、静止時も、肉体的に仕事はしている。

 ☆歩行

 直立二足歩行は、二種に分ける。

 ・“順歩行”共言へる同側の上下肢を、同方向に転移する形態。

 身辺の、日常的では在るが歩行と言へる感覚は少なく、奇異に感ずるかも知れぬが、日常の所作に在る。

 此処に、和道空手の真髄を観る。

 ・“逆歩行”共言へる同側の上下肢を、対方向に運動させる形態。

 現代の、日常的な移動法で、歩・走・跳等は“逆の歩”と為る。

 ・此の、順の歩に載せた体躯の流れの他に、躰で歩く異なる所作の併進・軸転が為される。此処の遣い方が、空手術としての起点と為り、胎動期とでも言へる。

 順歩は、極短距離の日常的な所作に遣い。逆歩は、日常的な移動に用いる。

 此の、遣い方の違いは、至近で瞬速を求める処に順歩、躰躯の域外では逆歩が好都合。

 ☆躰技

 此処に、多様な変化を持つ所作。躰技を所作に組込み載せた、突蹴・基本・形を錬磨。基本組手から自由組手に至る。

 只、初期は何れから始め様共、過程は自由な錬磨で有る。併し、通常の稽古過程が、時間を含めて無理・無駄・誤解を減らし多大な時間と労力を費やす虞が少なく、将来的な損失を省くには順を追いたい。

 何れにしろ、躰躯用法は躰幹・四肢を併進・軸転させ、同時の所作として遣う処と為る。

 扨、正立・自然体から歩行を経て、突・蹴と基本動作の習熟。

 此の辺りから、空手らしさが芽生へる事と為る。

 其処に、躰幹四肢を統一操作し全身の併進・軸転を精細に稽古する。

 此の、躰幹・四肢各部の末端迄、目的を持った所作としての、用法学習を進化させる初歩的操作が、重視される処で在る。

 此処は、是非共得られる最善の熟達者の担う巾処で在るが、残念乍多くは初心に近い経験者の手に委ねられている事が多い。

 ※→歩行を順・逆と仮定すし日常的に極至近距離(躰駆の触れる距離)での所作に順歩が有利長距離で仕事量が多要な逆歩だが単調な運動が続き大きな仕事量を効率的に使へる為有効←※

 ※→個々の歩行は自在だが集団の歩行は自由を制約する逆歩が適する←※

 ※→二足直立歩行は基本的に隻足の立位と考へる←※

 ※→物体の動きは併進・軸転が基盤で人体も当然其の域を出ない←※

☆☆基本的内容

 基礎的内容は、歩行の本質から併進・軸転。其に、身躰(躰幹・四肢)操作に突・蹴を主とした所作、総てが併進・軸転に拠る処と為る。

 多くの生き物は普通、併進と軸転を同時に為し難い。

 ※→参考迄に後々用いる可能性も有り此処で取敢へず力学的用語の一部を下に列記して置く←※

 併進・軸転に於いて、質量は不変としても対応する両者は形態に拠り異なる。

 運動に関して、如何(含内外・熱量収支無視)なる場合も、併進・軸転に於いて質量と仕事量(含熱量)は保存されるが、形状の変化に於て運動に大きな違いを生ずる。併進と軸転は、力学的に共通の対応と其の交換も在るので一部を記す。

 ☆直線運動/軸転運動

 ・慣性/慣性能率・加速度/角加速度・運動量/角運動量等々若干面倒

☆☆基本・形として、一連の所作に流れる。

 躰驅各部の併進・軸転、躰幹・四肢から末端迄の遣い様は、多岐多彩を極める。此処に、詳細な用法としての典型に形が在る。

 個別には、躰躯の併進・軸転の同時用法に拠り、突・蹴・打・受・払等々非日常的な用法を日常化と為す。此処が、空手術の難解な処で在ろう。

 其々に、用法は在るが原点として躰幹・四肢の始動から接触までは勿論、人体を流体様に遣う処が重要で、得てして恰も體躯を剛体として見掛け上の強さに使う意図が強く先立つ難が在る。

 主として、人体は軟体と観る巾とする。

 又、対象の損傷・破壊に関して、弾性係数・弾性限界・弾性変形等と破壊形態の要素が、定性的にも無視される処が多い。此等は、空手術に限らず、多様で重要な要素で在る。

 ・上段受流・下段払流

 高度に、柔術的な操作の感触を取込む事を、基礎的意識に持つ事が肝要。

 ・形を遣う錬磨

 具体的な対象を配し、実践に近い基本組手と為る。

 師の教へを踏まえて、身体の技法操作は、転位・転体・転技の三転を三位一体として遣うとする。此が、自然の所作で在り、微積に拠り計算されて操作する処と本質的に異なる。

 得てして、空手術は豪壮さを見せる意識に走り勝ちに為るが、虚仮脅しは禁忌としたい。

 他にも記したが、囲碁・将棋は人知で遊戯を楽しむ場で在り、本来加算器で勝負を競う意味は全く無い。此処にも、格技と競技の本質な意図・意識の相違が在る。只、外見的に其の異同の認識は自身にも判別着かず常に交換され乍、浮遊・変動するので識別は難事で在る。

 身体の技法操作は、転位・転体・転技の三転を三位一体。身体の操作意識は、束・先・備の三意を三位一体。仕掛の技法操作は、触・制・極の三技を三位一体。そして、転・意・技も又、三位一体とする事と為る。

 多様な技法操作も、原点は身体の併進・軸転の力学的な二元の運動に拠る。又、此の運動も併進・軸転時の、質量・慣性・形状等、何点かの要素が整理され、後は身体操作と重力・抗力・摩擦等々の遣い様に拠る。身体の物性を知る事等々。物理的な概念に就いては、別途概要を記す。

 何は扨措き、自然に遊べる事が生きる事としたいのが、風流空手とでも言いたい処とする。
 


 

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