22.風流空手 形 原論

2017/05/29 公開


 空手と言ふ、徒手空拳の格技を会得・伝承するに、“形”の稽古は独特の重きを為す。

 此は、様式化されては在るが、多様な所作に応じられる様創られ、決して“型”が固定化された挙動の繋りでは無い。

 格技自体、本来見せる要素は無く、錬磨の足りない眼で見た処で本質の理解も侭為らず、見掛倒しの虚仮脅にしか惹かれない事は自明で在る。当然、真意の理解には程遠く、伝へんとする処の多くは中世の呪術的とも思へる願望と観念論に終始し、支配される処と為る。

 競技は、本来の生存する為の格技より発するが、規制下で特異的に進化した優劣と記録を競う処に在る。

 競技は、観賞し楽しむ為なので視覚を通して奇抜な挙動に重きが置かれ、発生は格技としても内容は似て非なる方向性を求める処とも為る。

 此の、分別が着かず本末顛倒した指向に陥る事は、空手のみ為らず多々の事象で日常的に在る。

 見掛けを競う為、格技としての本質は削除され特異的な進化を辿る事は自明で在る。古代から、社会を支配する手段としても多用され、現代に於いては社会思想の主流を成し、構成の骨格を成す経済効果のみを目的とする様相を呈する事とも為る。

 曽ては、運命としての奴隷が生きる手段として在り、現代は自ら人間性を経済手段と化し、安泰を図る技法は変貌し観賞の対象として為る。競技に於ては、武士道とか紳士的とかの死語が罷り通るが、本質として馴染む訳が無く詐欺師の口上程度の意味すら存在し得無い。多々の、規制語を如何程強く発した処で内容を繕う隠蔽にしか過ぎぬ。他はいざ知らず、空手界に於いても将に中世其物、理無く利許りの暗幕で隠蔽された観念論で糊塗され、混凝土の欠片と見紛う許り。

 自然界は、常に混沌へ向かうが生命体は己の進化で寿命を縮め、人智は其をより加速させる。手段が、目的と化すのは進化の証と、目的を見失い果ては総ての生命体の消滅をも速める事と為り、早々と曼荼羅の混沌に向う事と為る。

 扨、師の形と型の分別は及びも着かぬ様相と為り、師の危惧は現実と為る。多分に其処へ向かう事は、自然の法として当然の事では在る。何れにせよ、事物の本質は不変としても、口上と内容は社会の要請に因り自在に変貌させられ、善悪の定義すら日常的な好みで操られる。

 空手の、形を錬磨する所作に観せる意味も無く、本質は生存法を会得する丈の事なので在る。

 事物の伝承に於て、形態の視覚に拠る処が好都合で在る事は否め無い為、形骸のみで全く異質な内容に変貌する危惧は自明で、其の社会思想維持に用いられる方向性に進化する事は、人智の持つ獣性としては当然で在る。

 他の、空手道や競技会に於いてはいざ知らず、又同門に於ても数多が遺憾乍、多分に師の疎まれ危惧された、恐らく遺伝子に残された本能的な加速度系に在る恐怖感や見掛けに拠る恐怖心、型に拘った鍛練に終始する安堵感等枚挙に暇が無い。師は、其処をも止む無しと見越して居られたが、真の心は許されて無い。

 技法や錬度の評価を、錬磨不足の未熟な判断者が、外見しか見へぬ為の不幸で在る。大仰な身振りと音声、無知の意を魅く獣性の虚仮脅し等、無知未熟な判定者に評価を委ねる結果でも在る。帯を引摺らん許に垂らし、凝固した突蹴と床踏抜かん許りの大音、鼓膜を破らん許の大音声は、幼児向けの虚仮脅しは古代から不変な人間の獣性で在る。何れの一事を摂っても、品位に欠ける無知への虚仮脅し、無能な判定者を恫喝する事にしか為らない。

 仁王像を見せ、威圧すると同様。木偶の案山子も、見馴れて来れば、何れ雀・鴉も格好の餌場と群る。

 真の、熟度を観別するには自身の錬磨と知性は必須で在る。未熟者には、自然の所作は形の意が観へぬ為、真意の理解は出来ぬ事は当然で在る。

 空手道競技に於いては、平然と形は組手の役に立たず等と、意味も判らず自身の練度未熟を判断に資する程度。着衣さへ、異なる物にしないと駄目だ等と言はれる始末、判定者の未熟さ程度を曝け出す意味しか無い。此の程度でも、格技と銘打ち其の指導者としての立場を保てる社会に、格技は存在し難い。

 然し、形には本来の意図する処を遥かに超へた、内容を見逃しては不可。期せずして得られる、心身の平衡と免疫力や思考力等を基盤とした、生命力練磨の基本共為り、生存術の原点に辿り着く処でも在る。漢方では、医食同源と言はれるが、此処では医形同源と言いたい処で在る。

 形での、錬磨を原点として身体運動に関わる基本的な要点を確認する。

 形を、端的に表現すると格技錬磨の原点で在り、心の沈静と為る。競技に於いては、意味も正反対で、意識の高揚に極言される。

 形は、自然の所作と共に思索し乍の、本質の極を持つ躰術として遣う。古来、空手術に於て型は座禅と併べ立禅と比され、無念無想を勧められる処も在るらしい。禅に関しては、無知な門外漢で在るが思ふに恐らく静止した座禅と比し、激しく動き乍の禅としての無念無想を求められ、型を立禅と称して禅の境地を求められるのかも知れ無い。然し、形には独り無念無想を求める意味は無い。基本的な所作の中で、自然の懐に身を委ね、微塵程も無い知識を削ぎ落し乍思索し、躰錬と共に人の知性を練る。形は、自然の中に身を委ね湧溢れる思索に浸りつゝ、自然の所作に極を持つ。

 一見、様式化された形態の内で、三転が一体の所作、三意が一体の意、そして三制が一体の制として、“極”も自然に委ねられた所作と為る。此処では、思索と所作は独立した状態で、無関係に在り乍一致した結果を為す。何等かの行為で、目的に対する過誤を減らす為、多くに指差呼称確認等が在るが、此は感性熟度の異なる数多を共通の行為に統合する為の手法でも在らう。

 多くの所作に於て、本来個々自在の特質で在るべき行為を、無垢・白紙と扱い個人又は集団で画一的に統制する為の拘束が、社会として集団の強さを齏す意味は在る。然し、本質が確認されゝば画一化は不要で在り、個々人が特性と錬度や必要に応じて為す事で在る。個人が、初心に回帰する事に無意味では無いが、所作の過誤は個々人の問題、行為の遂行に社会的な責任を負はされ、学習で拘束する意味は無い。

 我国に於て、文化伝承の形態として数多の家元制度が在る。素晴らしい方式では在るが、稍々もすると本来の目的を見失い利を貪る為の手法に陥り易く、自己の組織に封じ込める目的に変貌する傾向は否め無い。其の目指す処の、数多は勢力拡大財貨獲得。当然、本末顛倒で此の社会的空間を埋盡す事と為る。善き心技を拡め、伝承する事に多大な利は在るが、其れが本末顛倒し単なる勢力誇示は現代社会の主流を成す利益追求のみの思想に走り、伝承する事物も無しの企画に変貌して行く様は日常の事実で在る。

 技法としての、本論に戻る。

☆☆物性

 ☆慣性

 総ての物質は、慣性に支配されると言ふより、慣性其物が物質の存在とも言へる。物質の、一形態としての生命体が、何等かの作用を為すには慣性の支配下でしか動けぬ事は道理で、此処に重力等の支配を受け、身体を意に添う様用いる原点が在る。力の働きは、作用する位置や方向と質量や形状等に因り、其の効果が全く異なる事に留意する。主たる処に、慣性を土台に様々な要素が、物性・形状・時間・振動等々の要因で多様と為る。

 ☆速度

 自身を自在に遣ふには、其の動きを制御する。働く為の動きは、速度の制御に関わる事で此を滑らかに為す事が所作の原点と為る。速度を変へるには、仕事の有無に関わらず力が必須と為る。

 ☆仕事

 生命体は、維持する丈でも仕事を消費する。動きを伴う場合、此をより有効に働せ限られた範囲で消費する事が、所作の滑らかさを生み時間と仕事の自在で有効な用法とし、自然な所作と為る。簡便には、仕事は力と同方向の移動で決り。動きと垂直な力は、仕事と無関係で在る。

 熱は、自然には温度の高い方から低い方に流れ、熱量は自然に拡散し運動量の平均化と為り、事物の乱雑化に進む。

☆☆生体

 ☆反応

 生体は、個体の意志有無に拘わらず、本能的に生命維持の反射的な反応を持つ。

 ☆意図

 身体を、目的に添い自在に遣う所作を求められるが、基本的には本能の生体維持と反する方向性が、能動的で有効と為る。

 意識的な、身体の用法は後天的に学習する事で在る。先天的な本能・反射と、後天性な思考・行為は、相反する行動で在る。心身の錬磨とは、此を如何に融合し本能に近付けるかで逆は無い、本能を破壊しない事は生命体として必須で在る。数多の、指導者や修行者は此処を破壊する事の重大性を知らず、人の魂を売る事も辞さない無知も在る。薬物摂取での破壊と同様、指導としての破壊は日常的に在り得る。本能と言ふ、絶対的な領域に踏込む事は究極の自然破壊で在り、人間性を否定する処で此は文明として人類のみの能力と考へる。

 ☆実態

 身体は、先天的な反射反応と後天的な意志行動との、相反する要因の下で動く事を間々求められる。両者は、本質的には本能と意志の相剋性で在り、自然と人為の葛藤と為る。生体に於ける、本来の行動は意志の働かない生体反応・反射反応で、普通は其処にのみ大量の熱量を急激に消費する。其処に、人類独特の思考に拠る限界の無い恐怖心が、際限の無い欲望の下に進化を求めて仕舞う。思考に従う行動は、自身の本能的な反応を否定する方向性とも為る。其の思考を、又打消す思考も共存する葛藤が在り、撞着に陥る中で平衡を保つ処に人類の特異性が在る。

 生命体は、個体を捨てゝ命懸けで遺伝子を次世代に継ぐ事が、本能として意味が在り生命の意味は不明でも、此を永続させる事迄は確からしい。

 訓練は、社会の為に本能を破壊する働きを求め、社会の温存を図る。此は、社会としての要請で、個体の遺伝子以外を社会秩序の為に放棄させる事で在る。

 個体に執って、最悪の状態時に本能的な反応は専守防御の反射に在り、凝固に至る。稽古は、思考意図の行動を如何に反射反応に漸近させるかゞ、錬磨の目的とも為る。此の習得に、基本的に二者択一とも言へる処が在る。本能の、限界を超えた衝撃を与へ其処を破壊するか、其処に近付くかは恰も人間性を破壊するか構築するかはの神か佛の違いとも為る。個体の、生命に関はる程の衝撃を与へ改造するか、飽くまでも本能に近い習性に近付くかは大きな賭けで、自身の人間性を賭した学習をする事で在る。

 人間性を破棄し絶対的な神性を求めるか、其処を追求し相対的な佛性に近付くかの違いとも言へる。日常的稽古とは、意志行為を如何に本能的反応に近付けるかゞ本質と、考へる巾で在る。激しく、人間性を失はせる練習は本性を失はせる学習で在り、神域に踏込む事が求められる。

 日常的な稽古は、如何に本能に近付けるかの学習として、佛性に近付く事と考へる。

 極論すると、人間性を破棄するか其処を突詰るかとも為る。

 ☆所作

 求められる働きは、作為的では無い所作が求められる。

 以上の、本質的な事項の下に、形の稽古と遣い方を考察する。

☆☆練習形態の基礎

 ☆三位一体

 三位一体とは、亊物の象徴的な表現で究極的には連続な一元化、又対象的表現の不連続で処理する人為の緒で在る二元化、又限られた範囲内を象徴的に表現し本質の平衡を取る為の一表現法としての三元的表現も在る。此処での三位一体は、相剋的では無く相生的な意図と為る。

 師の表現した、転位転体転技の三位一体は、併進軸転施術を所作の用法として考へる。又、束先備の三意を三位一体として、所作の意図とも考へられる。其後に、極の三制として接触・制御・破壊を三位一体として付す。此処で、本質的では無いが独立した亊物として表現したい場合、三位一体と言う人為的な不連続表現は、多々用いられる。

 扨、少し基本的で具体的な処に進む。

 身体の、自然な所作を主目的として考へると、根底に在る思想は総ての所作を、本能に近付ける処と為る。本能的な感覚を破壊せず、其処に近付く自然の所作を求める処で在る。


 

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