21.風流空手 原点その2
2017/05/29 公開
師の格技を、極論すると“形”に在りと為る。斯界に流布される“礼に始まり礼に終る”や“唐手に先手無し”等を払拭し、心技は“三位一体”として為るとする。
格技には、勝つ意味を強調する事も無く、敗けずに相手を制するとしての和道空手が在る。
其処で、力の弱い者が負けぬ為には、急所を突く事が有効で、一撃必殺の破壊を求める必要は無い。師は、闘志を失はせて、逃げられゝば済む事でしょうとされた。特に、現代社会に於ては必須の意識で在らう。
稽古の、基本的流れとしては全体を網羅した形態の“形”が在り、其の成果を練る処に“自由組手”の試合形式を構想されて居られた。
“形”は、決して固定化された“型”では無く自在に変容して遣ふとし、“型”の発想から実質的な格技として“形”の用法、そして“組手”形態に至る処と為る。唯、個々の先人や時を降った指導者が、各々得手の技法のみを伝承する差違は当然なので、其処に偏異の少い普遍的な和道空手としての技法を求め伝へる処にも、形が在る。其処に、多様な用法を含む形の修練と伝承を求め取込み、自在に遣う処にも形の意味が在る。伝承は、偏在せぬ様にする巾として、平衡の取れた内容を伝承し保存したい。
此処で、形に就いて型との基本的な差違を比較して措く。
挙動形式は、一見同様に見へるが極論するに、全く対象的な逆の意識と挙動に在ると考へられる。
相違の基点を挙げると、歩の順と逆に至り、立位は隻と双の違い共為る。又、別な観点からは、基本的な意識と力学的な相違共言へる。其処には、当然運動力学的にも生理学的にも対比される処が多い。運動生理的に、型は鍛練の無酸素運動、形は錬磨の有酸素運動共為る。又、見掛け上の強壮と流麗の違い共表現出来る。
型の、用法意識を見受けると、受けで始まり先手無しと為り、力学的には常に強力で選り速い動きを求め、対象の破壊を確実に認識する迄暫時の硬直化を保ち、其の後に又全力全速で別の見当に力強く対峙する。常に、全力全速の動きで決時には暫時硬直状態で微動もせぬ静止と形態を求められる。先ず、先手無しで受けに退いて打払い後に攻めに転ずる言はゞ二拍子の感覚で、其の後に決めの形態を満身の力を込め破壊確認後、次の挙動に移る。其処から又、全力を込めた最速の動きを以て次の受けに入り、打払等の後攻めに転ずる。此処には、鍛練として非常に有効な身体操作が在り、静止中も筋肉は常に大量の酸素補給を求められる、強い呼吸を要求される処が無酸素運動が、多々見受けられる。筋肉鍛練には有効だが、此が流動的な格技として、有効に用いられ難い処に難点も感じられる。
形に於ては、常に対象に向けた意識は其の起りを選り速く捉へる事で、肢躰は寸前迄特に急ぐ要も無く日常的な所作の感覚とする。其処で、起こりを観たら即歩み寄る如く躰を寄せ三位一体で極め又は其の寸前迄を遣ふ。瞬転、次の対象に緩やかに向き寄り、次の起りを観る事と為る。此の瞬転は、順の歩に在り此処が基点で在らう。此の間、呼吸を止める事も酸素消費も少なく、補給も仕易い有酸素運動共言へる。日常の、所作が基本に為るので、動きの流れに抵抗が無く方向性の変化に抵抗が少ない。
三位一体の所作で、即軸転し順歩と為り、対象の起りを観る。起りが無く共、其処に寄り又は離れ次の対応に動きを想定、其処の起りを観る。寄る様は、対象への攻めで在り、勿論対象の起りを観た刹那から先で始まる三位一体、静かに潰す感覚から極め又は寸前迄一連の所作と為る。
形の上で、受けの形態を執る処も多々在るが、内容は総て対象を制する先の攻めで在る。唯、其の制する形態は多様に変転し基本的には破壊的な極めのみとは限ら無い。此等の、対応や変化は、無拍子と為る。
形は、対象の動きに後を退かぬ様、常に先を取る意識で力を入れず対象に向かい寄り、密着し接触する感覚で拳等を対象に触れる寸前から瞬時に極める処と為る。瞬転、力を抜き緩りと次の所作に移る。
極論すると、常に緩やかな所作で対象の起こりを観たら即、極と為る。
此処に、型と形の何れの可否を論ずる意味も無い。
師は、又研鑽結果の試用と選り深い研鑽に、当初より異端の謗りを受兼ね無い組手形態の導入を図る。
此処が、師の唐手界に踏込んだ後の、和道空手の発祥だったのかも知れない。柔術の遺伝子に、唐手の遺伝子を組込み同化した、自在な和道空手の発現共考へられる。
其処で、技法に重きを置き師の教へで特に強調された処を、基点より解析する。
先ず、心技は“三位一体”とし、稽古の基本は“形”を遣ふに盡きると為る。
師は、常に“楽にして”と、躰の力を抜かせる事に腐心された。空手の動きは、日常の所作と言ふより日常の所作が空手と為る。動きは“躰”、手足では無く躰で歩きなさいと、此も常に諭されて居られた。立居振舞い、総ての所作は自然の流れで生活に在るが、格技の空手は此の“極”を持つ処が、自然の所作に破壊力を持つ処とする。そして、其立位からの自在な歩行が原点と為る。
自身の、躰を遣い易い様対象との間を読む、其の所作に師の空手が在る。先ずは、対象に接触する迄の歩、そして瞬転等の後接触時の歩、極も歩行し乍等。総て、自在な歩行が原点と為る。直立二足歩行を基盤とした、自然の所作での隻足立位が自在と為る処が施技の原点で在る。再三記する如く、歩行の解析から基本は同側上下肢を同方向への移行を、基盤の“順”とする。対側の上下肢を同方向での移動は“逆”で在る。
順が自然の所作で、逆は場合に依り不自然な挙動とも言へる。足裏は床面と平行で一分の間、不即不離を基本と為す。
風流空手としては、歩行を順歩と逆歩とし、順は日常の自在な所作に、逆は長距離移動で走行に向き、移行は歩行・走行共分類出来る。
歩行は、隻足が支軸足とし接地し他足は浮遊足とし足裏は地と一分の間で不即不離とする。走行は、双足が不即不離為らず両足底離の場合で在る。
此処に在る、自由度と力学的な選択の差は大きい。
扠、唐手術とか空手道の冒頭に浮かぶ印象は、剛壮無比かと思うが、師は此を好まず常に楽にする様にと、躰の硬直を忌嫌い常に自然の所作で先を取る事を是としている。只、剛壮を好む者には左様に見せる事に吝かではないが、其を肯定している訳では無い事は自明で在る。
此処で、空手界に於いて常々耳目に触れる、“礼に始り礼に終る”や“唐手に先手無し”を否定する事とも為る。
空手界のみ為らず、格技を超へ社会生活する上での、生存手段の根底に在る本能の発露や暴発の抑止として、空念仏又は権力の援護としての象徴等、単なる粉飾に過ぎず願望でも在らう。余談として、本来段位とは家元制度に於ける修養程度の目安で、象徴で在る。競技界での、記録や勝敗を司る社会には馴染まず無意味な階位で在る。又、“礼”とは前述した“備”に在る処で、単に玩具様に首を前後屈する意味では無い。稀に、首を回す等は不届で獣の仕草共言へる。
師は、社会の無意味な誤魔化し願望等は否定的とする節は多々在るが、諦めの意識で他人が其の方向性を好むならば其の様に見せれば良いでしょうとして居られた。
気合いを入れる等と称し、奇声を張挙げ床板を抜かん許に踏鳴し、彫物の如く全身を硬直させる等論外の虚仮脅にしか過ぎ無いとする事は、当然の理と為る。現代社会で、当然の如く可とする行為も、日本の格技としては見るに耐へ難い羞恥に欠けた挙動も、処々に散見される。
風流空手としては、和道空手の身躰操作と意識を“三位一体”と纏められ、動きは“自然な所作”に尽きる。
躰の遣い様は、型に嵌まらず自然な所作として、力む事無く滑らかに上下動少なく静かにと為り、変幻自在に遣ふ処に“形”の意を強く勧された。其処には、常に格技としての気合いを秘めた極を持つ。
和道空手に措ける、揺るがせに出来ぬ重要な要素には、緊急時以外常に自由度を失はぬ事が根底に在る。
空手道と師の勧す空手術とは、全く異質な感を持つので、敢へて解析した内容を風流空手と称する事とした。
基本的な相違点を、多くの処で対比するが、原点に於ける相違を明確に浮彫にし、格技とは如何なる事かを確認して置きたい。
師の、空手術の稽古として主軸を為す形に就いては、従来の“型”を“形”として特に強く勧めている。
現代、斯界で如何なる理解を為されて在るかは不明としても、創始以来師の形を踊り様で使い物に為らないとの酷評は耳に入っているが、一般的な空手道の決めと師の極めとは、異質な感は強い。
数多は、気合いを入れると称して足音強く床踏抜かん許に鳴らし、大音声で全身を硬直させた状態を称して在るが、此は全く無意味と言ふより損う意味合いが強い。
空手と言ふと、“剛壯怪力大音声”を常とする世で、此等を排除した空手を目指された師に教へを乞へた僥幸に感謝、此を失う事無き様に伝承したく、風流空手として解析する意図で在る。
空手道として、世に言ふ内容の底流には観念的な願望が感じられ、見掛けの豪壮さで恫喝圧倒等々、多々違和感を覚へる。
其処で、原点を探り末端の技法に進化の過程を、整理して往く。
身躰の遣い様を、順序立てゝみる。
先ず、基本的な正立姿勢、次いで歩行と為る。
此の内に、格技としての原点が在る。
正立は、如何なる動きにも自然の所作として対応出来る、立位。
歩行は、常に躰で歩く所作で立位からの始動で、此の内に破壊力の在る極めを持つ事と為る。
歩行の所作を、理論的に掘下げる。
師は、常に“身体で歩きなさい”と諭されて居られた事の、理論的裏付けを考へる。
格技は、如何に個体の存在を確保するかに尽きるが、敢て内容を分割すると生存の基盤と技法に分類出来る。
何れも、多岐に亘るが又其内容も多様で在る。
本質は、其基盤で在るが格技と銘打ば技法に重きを為す処で在らう。
然し、此の技法自体が基盤で在る生命力の錬磨にも、資する処と為る。
此処で、空手に於ける技法錬磨の主体は、形で在らう。
此処では、技法に関する原点を主とする。
当然、無関係では無いが生存に関しては、形の部分で記す事とする。
論に入る前提として、再三述べては在るが人智の及ぶ狭さを理解した上で、定量的な根拠の危うさを避け、定性的な判断を為す。
勿論、定性論の判断とは言へ大小程度の関係識別は在る。
此処で、本題と為るのが歩行で在る。
人類は、二足歩行の生物と称しても、現代社会での移動手段としては二・三に分類される。
歩行を、躰躯に分割し躰幹・四肢の五分割として、各部分の位相差からの解析。又は、体躯の用法で軸転を主に慣性・慣性能率を基本とした用法と躰幹四肢の筋力に拠る分類。そして、身躰の自由度に因る分類等と為る。
前述の、順歩と逆歩も在り走行と歩行の区分も在る。
順逆は、四肢の位相差無しと半位相の違い。
躰躯の用法としては、慣性と慣性能率を駆使するか、筋力に因る仕事量を重視するかの違い共為る。
運動形態の、巧緻性と仕事量の多寡に因る事にも為る。
歩行は、二足と称して隻足が接地して方向性の自由度を持つが、走行は単足移動で接地時間の空白で自由度を失う時間が長く、意が異なる。