20.風流空手 原点その1

2017/05/29 公開


 大塚博紀流祖より、教導頂いた格技和道空手の解析を試み、渇望していた師の手引書を出し得なかった心に想いを馳せ、其の心技を探し原点の本質と形態を探る。

 心に関しては、具体的な思想を享受頂く折も少なく、師の数少い言辞の端々を拾い集め自身の思索を土台とした解釈しか出来ぬので、心を正確に理解出来る訳も無し心理を推測する無礼には馴染まず、技に多くを置く事と為る。

 其処で、重きを置かれた多様な技法に関しての思索や内容の解析と実践を主体に、風流空手として記す事とする。

 先ず、師の技法を概括するに、柔術の修錬を元に唐手を取込み同化したと考へると、理解し易い。

 師は、密着形格技としての神道楊心流柔術と離隔形格技の刀槍修錬後、恐らく日常的に得物を持たぬ社会で必要な護身術として、未知の離隔形格技の唐手術に、安全な間と破壊力を取込む利を探り出そうとした処と思う。只、実効としては思いの他敏捷性に物足無さと形骸的な破壊性を感じ、柔術と唐手の特性を合せ持つ和道空手に行き着いた処と思へる。原点に、柔術を置き其処に唐手を移入、従前の沖縄唐手から和道空手へと進化させたと考へられる。柔術を基軸に、距離と加速度に安全性の間を基盤とした徒手空拳の躰術を、模索されたと思ふ。

 密着より、離隔の安全性と破壊力に沖縄唐手の技法を取込み遣ふとの意識で在る。併し、如何にも力強く剛壮で秘するとし乍も垣間見せる唐手術の弱点を見抜き、逆に力を観せぬ流麗な和道空手へと進化させた。

 只、師が常に求められて居られた心技は、門弟達の口角には上っても多くは其の意を解される処少なく、多分に形骸的な口伝と為され、師の嫌ふ見掛の強さを誇示する処が多々感じられる。

 和道空手は、一言で表すと“形”と為る。数多が、“型”を称する時代に師は“形”を強く勧された。只、近年は形と型の分別も付かず、何時の間にやら全て形と称する事と為って仕舞った。從前より、型を護り伝承して来た方々の心技は踏にじられたのか、奇っ怪な現状で何時の間にやら換へられたらしい。型も形も、何れの可否を論ずる事は無いが、所謂換骨奪胎処か意も解せず広言する事は、恥と言ふ処と為らう。“手”が、唐手から空手へと改称、数多が空手道と称するより酷い事態で在る。不易流行とは言へ、無知が流行を追う愚は仕方が無いが、是非共避けたい処で在る。世が、流行に乗り全て幼児化したとしても、和道空手は不易で在る。

 良き処は取込めとは言へ、心技の伝承に於ける日本独特の家元制度での錬度を示す段位等を、形骸的に勝敗や記録を求める競技界に導入する等は、違和感を覚へ理解し難い処で在らう。此の世界に於ける、不明確な心技と形態に就いても、和道空手を軸に出来る限り正確な流れを解析して観る。

 現代社会に於て、師去りし後の世に流布されて在る和道空手を含め、空手道全般と師の創始した和道空手の心技が、如何にも乖離して往く様は、無意味な時流に乗り当然の結果なので在らう。

 数多の、漫画様の唐手に対する願望と匿秘性に基く観念的な知識を、現実と思込み其処に空手道と言ふ“手”の前後に日本的な言辞を弄し、無知か故意か源流を混濁させる事が、眞を偽に換へる手法なのであらう。此は、現代社会の基本的な構成様式で、本質は誑し其物で在る。大和の言霊も、眞を偽で無く伝へる様大切に遣いた。

 統一的に、組織化された競技団体の認定する技法の判定者が、観の眼を持てぬ単なる有資格者ならば、観測記録機器等を導入し判断させる事が厳正で、格技としての内容判断をする意味は皆無でも、競技の正確な記録と勝敗の判別に過誤は激減する事と為る。

 囲碁・将棋を電脳と競ふと同様、此は異次元世界の内容比較で無意味共言へぬだらうが、本質的な意味は全く無い。人の“心”を機器で測る無作法は、人間自身を貶め見失う愚に往着く事は自明で、何を規制仕様とも誤魔化しでしか無い。

 師の和道空手は、源流に柔術を置き唐手の形態を同化させた格技と考へられるが、師は其処に和道空手として柔術の気配を払拭させる方向性を意識されて居られたと思ふ。併し、心技に源流を払拭する事は総てを破棄する事とも為るので、此の部分には自家撞着の違和感は在り得たかも知れない。和道空手として、在来の願望に基く粉飾を払拭した空手を勧める事は、原点に柔術を据た上での空手に、葛藤は不要で在る。柔術の遺伝子に、唐手の遺伝子を取込んだので在り、当然源流を取除く意味は無く源流在っての本流の存在で在る。

 師の格技は、極論すると“形”に在り。斯界に流布される“礼に始まり礼に終る”や“唐手に先手無し”等の、偽で在る願望や糊塗を払拭し實を得る事で在る。

 格技には、勝つ事を強いる事も無く敗けずに相手を制するとしての、和道空手が在る。

 師は、其処で研鑽の一形態として、異端の謗りを受兼ね無い変幻自在な“形”と、円が無限の拡がりを持つとの理解を元に、土俵様の円形場を設定した自由な“組手”様式を提起して居られた。師が、新しい唐手界に踏込んだ由縁だったのかも知れない。

 柔術の遺伝子に、唐手の遺伝子を組込み同化した、自在な和道空手の構想提起と考へる。

 其処で、技法に重きを置き師の教へで特に強調された点を、風流空手として解析する。

 先ず、心技の本質としては“三位一体”を基とし、稽古の基本は“形”を遣うに盡ると為る。

 三位一体は、天地の気から人の気を生ずる処に始まり、天地人で成立つとする。此処から、一般的には同体・同質・同等々三元一組で三位一体と多様に用いられる事が多い。此処で、位を元とし三位を勝手に三転・三意・三制等と設定して措く。

 師の、身体操作に示す三位一体は転位・転体・転技の三位を三転。束・先・備を心に置き、三意。対象への操作として、“極”は触・制・破での制御を、三制等と仮称する。

 三転は、転位・転体・転技で併進・軸転・施技を遲速無く一致して施すと為り。

 三意は、束・先・備で意識の場に於ても、心身共に一体として、常に先を取る流れに繋がり、滞り無い所作の流れで納める。又、此内には“禮”が含まれて在る。

 三制は“極”で、触・制・破とし接触した瞬間から如何に対象を制するかと為り、一連の技に持つ流れに極が在る。触れる起りから、対象の変化に応ずる誘導の先に継ぎ、非常の場には弾性限界を超へる迄の仕事を辞さぬ技の制を持つ。此等の後、瞬転次に流れる所作と為る。勿論、各三元内での一所作でも可と為る事は、当然で在る。

 後年、師は手技形態でも“アレッそんなの入れたっけ?”等と一所作で其儘極めに往く事も儘在った。

 師は、多彩な技法を伝へられたが、基本はピンアン初段・ピンアン弐段とナイハンチで在る。

 形の所作で、理解し難い処を伺うと“其処は君、工夫して置いて呉賜へ。”と任せられる凄さ、素晴らしい師に出合えたのは得難い僥倖で在った。

 師は、常に“楽にして”と、躰の力を抜かせる事に腐心された。和道空手の、動きは日常の所作と言ふより、日常の所作が空手と為る。動きは“躰”ですよ、手足では無く躰で歩きなさいと、此も常に諭されて居られた。

 立居振舞い、総ての所作は自然の流れで生活に在るが、格技の空手は此の最後に“極”を持つ処が、自然の所作に破壊力を持つ処と為り、其の立位からの自在な歩行が原点と為る。

 自身の躰を、遣い易い様に対象との間を取る、其の所作に師の空手が在る。

 先ずは、対象に接触する迄の歩行、そして瞬転、接触時の歩行、極め乍の歩行等。総て、自在な所作が原点と為る。

 直立二足歩行を基盤とした自然の所作で、隻足立位が自在と為る処に技法の原点が在る。再三記する如く、歩行の解析から基本は同側上下肢同方向への動きを基盤とし、“順”の歩とする。現代、一般的な対側上下肢の同方向移動は“逆”と為る。順が自然の所作で、逆は場合に依り不自然な挙動とも言へる。又、足裏は床面と平行に不即不離、一分の間を基本としたい。

 扠、唐手術とか空手道の冒頭に浮かぶ印象は、剛壮無比かと思うが、師は此を好まず常に楽にする様にと躰の硬直を忌嫌い、常に自然の所作で先を取る事を是としている。只、剛壮を好む者には左様に見せる事に吝かでは無いが、心は否定で在る。

 此処で、空手界に於いて常々耳目に触れる、“礼に始り礼に終る”や“唐手に先手無し”は否定される事と為る。此等は、空手界のみ為らず格技を超へた社会生活でも、生存手段の根底に在る本能の発露や暴発の抑止、下剋上の権力擁護策等として象徴的な空念仏若しくは単なる粉飾や願望でも在らう。

 余談に為るが、本来段位制度等は家元に拠る修養過程の目処で、象徴的な階級制度。又は、其の源流を止める強弱の平均値を表す位で在る。

 競技界に於ける、記録や勝敗を識別する社会には馴染まず、装飾で無意味な階位で在る。

 又、“禮”は前述の“備”に内在し、何処で頭を何回下げるかの指示等、礼の心には無縁。玩具の様に首を下げたり暫時地面を眺める事でも無し、況んや首を回す仕草等は獣で在らう。

 師は、社会の無意味な誤魔化しの願望等は常に否定的で、諦めの意識も感じられた。

 気合を入れる等と称し、奇声を発し床板を抜かん許に踏鳴し、彫物の如く全身を硬直させる等論外の虚仮脅しにしか過ぎ無いとする事は、当然の理と為る。現代社会で、当然の如く可とする行為も、日本の格技としては見るに耐へ難い羞恥に欠けた行為は、処々に見受けられる。

 風流空手としては、和道空手の身躰操作と意識を“三位一体”と纏められ、動きは“自然な所作”に盡きる。

 躰の遣い様は、型に嵌らず自然な所作として、力む事無く滑らかで静かにと為り、変幻自在に遣ふ処に“形”の意を強く勧された。其処には、常に格技としての気合を籠めた極が在る。

 唯、現在の空手道と師の勧す空手術とは、全く異質な感を持つので、敢へて解析した内容を風流空手と称する事とする。

 基本的な、相違点を確認対比し原点に於ける相違を明確にして、格技とは如何なる事かを認識して往きたい。

 師の、空手術の稽古として主軸を為す形に就いては、従来の“型”を“形”として特に強く勧められる。

 唯、現代の斯界で如何なる理解を為されて在るかは不明としても、創始以来師の形を踊り様で使い物に為らないとの酷評は耳に入っているが、一般的な空手道の決めと師の極めとは、異質な感は強い。

 数多は、気合いを入れると称して足音強く床踏抜かん許に鳴らし、大音声で全身を硬直させた状態を称して在る様だが、此は全く無意味と言ふより意を損ふ処と為る。空手と言ふと、“剛壯怪力大音声”を常とする世で、此等を排除した空手を目指された師に教へを乞へた僥倖に感謝、此を失う事無き様に伝承したく、風流空手として解析する意図で在る。

 空手道として、世に言ふ内容の底流には観念的な願望が強く感じられ、見掛けの豪壮さで恫喝圧倒する等、多々違和感を覚へる。其処で、原点を探り端末の技法にも進化の過程を、整理して往く。

 身躰の、基本的な遣い様から記す。

 先ず、基本的な正立姿勢、次いで歩行と為る。此の内に、格技としての原点が在る。

 正立は、如何なる動きにも自然の所作として対応出来る、立位。

 歩行は、常に躰で歩く所作で立位からの始動と為り、此の内に破壊力の在る極を持つ事と為る。

 師は、常に“身体で歩きなさい”と諭されて居られた事の、大切さの認識と実践が基盤と為る。

 格技は、如何に個体の存在を確保するかに尽きるが、敢て内容を分割すると生存の基盤と技法に分類出来る。何れも、多岐に亘り又其の内容も多様で交錯する。

 本質は、其の基盤で在る。格技と銘打ば、技法に重きを為す処で在らうが、其が生命力の基盤の錬磨に資する処と為る。此処に於ける、空手技法錬磨の主体は形で在らう。

 此処では、技法に関する原点を主とする。当然、無関係では無いので生存力に関しては、形の部分で記す事とする。

 論に入る前提として、再三述べては在るが人智の及ぶ狭さを理解した上で、定量的な根拠の危うさを避け、定性的な判断を為す。勿論、定性論の判断とは言へ変数程度の関係識別は必須で在る。


 

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