19.風流空手 風流曼荼羅

2017/05/29 公開


 風流空手は、大塚博紀流祖の和道空手を解析し、稽古体系としての基礎躰錬・基本・形・基本組手等を透して、自由組手に到る過程の確認と為るが、具体的な技法に関しては改めて画像を付し詳解するとして、取敢へず其の行方を短絡的に模索をし推測する。

 究極は、唯野獣の強さを追及する訳では無いとしても、格技は人間としての強い生存法の原点と野生との交錯点とも考へられ、自身を強く存続させる技法とすると生存する為の総てを含み、心身の錬磨も其処に在り多様な効果を齏す。

 生命自体、其の存在意味は不明で在るが此処に存在はするので、現在の処遺伝子の存続と措くしか無い。又、格技は個体を強く存続させる技法なので、其れ自体の伝承には余り意味は無いが、遺伝子を選択的に存続させる一助とは為る。其処に、格技自体が遺伝子の如く伝承される意味は乏しい。生命の遺伝と格技の伝承は、其の発生に相似的な意味も無く異次元の存在なので、人智の及ばぬ意味不明で高次元の遺伝子の存続に対し、格技は強い個体存続維持としての意味しか無い。遺伝子の存続を原点に据へれば、宇宙の涯を人智で推測する程度の理解で在る。

 只、此処で低次元では在るが、本質の明確な空手を称する徒手空拳の格技を透し、様々な事象との相似性を以て人間としての個体や集団の方向性と、自然界との関りを含め推測は出来る。

 先ずは、流祖の心技を解析し無形の思想と理論を思索、其の伝承法を緒とする。

 日本の、特徴的な技芸伝承法に家元制度が在る。絶対的権力者に拠る心技を、個々人が良かれとし形態的な内容を以て、伝承を階級制度で構築し組織を多様に拡散させ乍、次世代への伝承を目論む処で在る。

 其処で、和道空手に於ても心技の修得・錬磨と伝承・拡散を、基礎躰錬・基本・形・基本組手・自由組手等と、様式化された形態に拠る処と為す。

 一見、技法のみを伝承する体だが、此処には内在する読取難い思想の伝承も在る。唯、難事は伝承者個々人の知性と所作の相俟った錬度に拠り、内容も変貌する処とは為る。心技の伝承法として、非常に有効では在るが様式と内容を含め完璧で在る保証は無い。伝承する、個人に内在する知性や可否善悪の基準、又構成される社会に応じ取捨選択され、多々変容し乍伝承・拡散される結果、内容は本末顛倒処か反転・逆用される事態は日常的で、不変が存在する訳でも無し、寧ろ無意味な乱雑化を辿る処でも在る。又、意味も理解出来ず階級制度のみを此の根幹に据へ、経済手段としての技法伝承形態のみを組織運営の基幹とする等、現代社会に於ける此等を当然とした上での、伝承とも為る。唯、此処で無形の空手を一つの生命体の如く想定、遺伝子様に形式化された形態を設定、敢て日本的な家元制度に拠り存続拡散を図る。

 此の組織形態が、人間社会の構成縮図と考へれば、自己相似構造の典型として多くの他を類推する手段には有効で在る。単純に、社会的に定義される願望又は観念に因る善悪の基準下での運用を考へるに、事物は表裏一体なので表を掲げての形骸的な運営は必然としても、裏に潜む実質的な詐欺恐喝的行為をも、平然とより多用され得る。

 取敢へず、組織構成者自身の選択に拠り用法の可否善悪は自在に運用され、其の心に拠る処と為る。

 此処に、日本的な恥の観念を刷込み、暴走の歯止めとする等は有効かも知れない。併し、此も混沌の中で自在に選択され得る勝手な思想なので、正反対の内容を含む多様性を持つ処では在る。恰も、本末表裏の無い一捻りした無限の環帯で在る。此の、可否善悪を判断する心すら構成される社会に拠り決まるので、観念の刷込みも社会に応じる事は当然で、此処に遺伝子様の原点を設定する。

 扨、伝承内容に就て、基本・形・基本組手等空手の技法様式により多彩な形態を望むか、精選しより単純化を求むるかは、個々人の心身錬度に拠り選択される処で在る。概ね、未熟稚拙な程理解度の浅い多彩さを求め、形態の数を誇示し勝ちとは為る。逆に、熟達深遠な程形態の単純化を求め、総てを包含すべく究極を目指す傾向は否めない。思索と錬磨の平衡化は、知性の深度と通じる処でも在る。

 此は、何も空手と言ふ格技に限らず人為総てに共通の方向性でも在り、真に人の求める処かも知れない。世に言ふ、一芸は多芸に通じ、多芸は無芸とも為る。

 家元制度を掲げ、心技伝承では無く財貨獲得のみを目的とする陥穽も在り、心技消滅の途共為る。

 思索の深い程、思想・技法の一元化を求め、錬磨に依り理解が深まる傾向は当然で、其処が知性の原点でも在らう。総てを究めに向い、時間・事物・現象等々の統一一元化が混沌の場に在り、此処が曼荼羅理解への緒とも為る。

 曼荼羅は、思想・技芸そして生存自体の総てを含む場で在り、森羅万象の一元化で在る。

 其処は、人智の及ばぬ多次元の干渉空間で、混沌の場。無限な干渉の結果、偶然生ずる刹那に唯一無二の意味を見出し感ずる瞬間が生存の寿命で、事象として一瞬の観測をされる事と為る。

 諸事の、目指す処を探るとするに、其の究極は無限に遠い。自然界は、微塵の一部すら人為で表現する事は不可能で、其の手段は無限に在るが至る処は無い。総ての、存在自体が時間軸を固定出来ぬ処に在る。

 些末な格技も相似的で、生命の存続自体も個々の所作が至芸を求め、唯一求める所作は多様に変幻する。然し、時の流れには逆らへぬ事では在る。

 名手の表す、書画の一線・彫刻の一穿には、唯一の所作が籠められ表現されている筈。そして、恐らく表現された結果に自身は時に曝され、納得出来ず限り無く似た所作を繰返し乍完成を夢見る事と為る。

 物質の存在、又は生命の一事や本質は不明でも今の処は、遺伝子を誤写し乍混沌に埋没する処と為る。

 意味不明の、究極で在る曼荼羅と言う混沌、取敢ずは其処の時に託す処とするしか無い。

 現代、人類は平衡には無頓着で、極限られた偏在する観測で認知された資料・知識を過剰に取得し乍絶対視し、より多くの観測に掛らぬ事物を無とした挙句、願望を駆使し全く誤った結論を真と信ずる無知すら、認識出来無い。此の、当然の無知・誤謬を真と信ずる必然の無知に、より多くの意を払う事は必須なので在る。思索と知識の融合した知性、其の裏付が無い平衡を失した未来は早々の破綻で在らう。何れにせよ、時の流れと共に遅かれ早かれ、混沌に至る方向性は必然なので在る。

 然して、此処の無限な干渉での一瞬が、其一事の寿命で在る。偶然の干渉状態が、如何に微塵の如き奇跡的で希少な確率の中で膨大な仕事を注込んでも、所詮は持続出来ぬ処。奇跡的神秘の、恐さを真摯に受止め理解したい。

 永劫の時に、無限の多様性を持つ多次元空間が、曼荼羅と言ふ総てを包含する混沌の場で在る。

 芸術家の、練られた一筆の線・一鑿の刻は、無地への汚染や素材の破壊とも考へ得るが、至高の名手は其中に多様な意思・思考を包含させ、其の時点に於ける唯一の表現とし、其処に総てが含まれると意図しているので在らう。無数に在る表現の中で、其れ以外は総て無意味な表現と考へ、不要と見做される。

 格技に於ても、其場に応じた唯一の技と同様で、其以外は無意味と為る。

 対応すべき、無数の所作から唯の一手を遣う。此処に、総てに共通の心技を唯一選り出した結果が、形の一所作で在り一手でも在る。此れが、師の強く勤されていた“形”の意と為る。

 遊戯と見為される、囲碁・将棋の一手にも当然同様の意志が在る。棋士の一手と電脳の一手は、文化と文明と言ふ異次元の比較だが、結果としては混沌の曼荼羅に包含される。然し、此処での無意味な異次元の比較すら、数多には識別出来ず同一視される実態は、日常的に出現する誤謬で在る。比較に為らぬ事物を、比較する恥ず巾無知は、認識出来ねば為らぬ。

 学問・芸術にせよ格技・遊戯にせよ、最終的には一瞬丈出現する生命体の存在と同じく、曼荼羅の場に於ける或干渉の刹那で、其が萬物の寿命で在らう。或生命の存在自体、無限に繋がる時空の中で、唯一選択された刹那に於ける存在なので、其一瞬の思索・所作に意味を持つ。

 日常の、出会いから所作。無限の混沌に在る、曼荼羅での一瞬が学問・芸術・格技・遊戯等々、其れは得難い出会で在り、其の瞬間の存在が、風流と為る。

 此れは、唐突に出現する事象では無く、曼荼羅に在る想像を絶する偶然の集積結果が、此処に於ける連続した瞬々の干渉に於いて観測された場を事物とし、粒波とでも表現する。我々は、実在を確認する術として、現代では不連続な表現しか容認出来ぬ無知。相容れ無い“實と虚”、連続と不連続を共に容認出来ない社会は古来から進化は無い。人類は、本来の連続した一事を明示する手段を持てず、不連続な表現手段のみを絶対視する社会に、未来は暗い。

 此れは、地の果てから海水が流れ落ちると言ふ程度の、古典的な思想から何等進歩の無い実態で在る。

 此の、低い知性程度で現代社会を構築し、絶対視する主流を為す思想の構成上、多々解決不能な問題に行詰まる処は自明で、後は神佛に頼るのみ。自然界の、根底を為す曼荼羅を切捨て、砂上の楼閣を拠点に据へる愚を自覚する能力と知性を見失い、多様化を進化とし知識に溺れ際限無い未解決な問題に埋れ、何れ総ての崩壊を早々に招き曼荼羅の混沌に至る。

 如何に、緻密に言辞を弄する共、窮理が不連続では“眞”に到達する訳が無い理で在る。

 現世に戻り、一考する。遊戯の原点は、知性・感性・体感の融合で成立ち、人生が在る。三者の、何れにも優劣は無く平衡混在、所謂三位一体で在る。唯、此等の内容自体は“能と受”に分別される。当然、能動的な思考・行為の元で眞の遊戯が在り、受動的な処は遊擬で在る。能動、即ち遊戯は生存進化の原点での生命が成立ち、進化に向う。受動、即ち遊擬は無為な退化で、早々に無の消滅を辿る。唯、能受は其の心に因り常に混交・変動し乍自身の寿命を決める事と為る。

 進化した生命体は、異性間での生殖がより進化を齎すが、人間様の同性生殖の欲望等は種の早期絶滅を促し、早々混沌に入る。人為の、種根絶手法は無農薬農業で実証済で在り、偽を真と願望する人為は危い。此処には、個体が生命を懸けた次世代への遺伝子継承が在る。遊擬は、異次元空間からの種絶滅操作で在るのかも知れない。遊擬は、与へられた題材が尽きた途端に消滅、為す術も無く不満も歓喜も認識出来ずに曼荼羅の虚無混沌に至り、死に還る。

 受動的な遊擬は、寿命放棄。遊戯は、能動的に其題材を自ら発明されるべき処に在り、其処に無盡の人知に拠る好奇心が思考力を産み、相俟って遊びの歓喜を感じ人知の進化と為る。

 曼荼羅と言ふ、総てを含む無限の多様性を持つ混沌は、想像を絶する多次元の場で、総てが同じ時空で存在している。

 現代社会の如く、全ての結論を不連続処理しか真と断じる事が出来無い誤謬を認識し、微塵の如き観測を全てと信じる偽を、認識出来無けれならない。限無い未知の深さに、微塵の人智に真摯な心は必須で在る。

 本質は、総て同じ曼荼羅の場に存在しているが、人智の究極は其の程度迄で、総ては實と虚、連続と不連続、波動性と粒子性の矛盾した二面性を創作、矛と盾に固執した砂上の楼閣で在る思想を基盤とする程度の、理解と表現の無知を是認出来ねば為ず。曼荼羅と言ふ、混沌が理解不能では未来が暗い。

 人智が、自然の極一部を観測し全てと断定、観測不能のより多い未知の否定は、厭な事物に眼を瞑る丈で未知の場が無限に多い自覚は必須で在る。

 盲者の群が巨象を探る様で、足を巨木・鼻を大蛇・胴を巨壁と、未知の領域では既存の事物に置換へての表現しか出来無い。

 微塵の人智は、其処に遊べる事が眞の幸なので在らう。何処迄行っても、曼荼羅は尽きる事無い無限の場で在る。

 宇宙空間は、人智で百億年の桁、人生多寡々々百年、此瞬間の奇跡は再び無い。

 研究とか究明とか、此の刹那に曼荼羅の中で遊ばせて貰へれば、奇跡的に幸せな生涯と言ふ事では在る。多寡が、人智で表現された混沌の場で在る曼荼羅と言ふ時空の奇跡を、感謝享受したい。


 

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