7.風流空手 基礎 2

2009/05/10 公開


吾等が師の空手は、昭和初期から前中期頃のものと考えています。

格技は日常のものであり、生活の中にある日常の生活様式・生活用具等から来る所作、これ等が基として設定されることになる。それであれば、現代社会に於いてはもう時代遅れの役立たずと、早合点されることは当然のことではあるが、この時代は古の野生的な時期と異なり、様々な事象に関しては相当経験的な解析の出来る時期であり、様々の体技に関しても精緻な発展を遂げています。然し、肉体的には下降線に入り掛ってきた感の時期であり、又理論的な裏付けに関しては今以て不備な部分を感じています。

「温故知新!」現代社会の余りにも機械文明、と言うよりも電子文明に頼りきった生活の中では、人類が生命体としての機能を相当量失った状態です。この中では、本質的に格技は不在でしょう。戦争を含めて全ての殺傷場面では、電子機器の性能と指先の速さで勝負。この動きで処理できる中に生命(いのち)の感覚は無い。それでも敢えて、もう古典となった格技の存続を提唱する。

  1. 日常生活(幼時よりの日常)

    三位一体の転位を重視するとき、瞬発力も必要だが安定的な移動の出来る平衡感覚がより重要かも知れない。そして、不安定な状態になったときに回復できる反応の感覚と瞬発力は、幼時よりの転げ回り・・・等々の、習慣の中で多くを得られる。
     
  2. 極めの感覚(用具の用法)

    空手としての極めの感覚は、一般的には力強い破壊力、ガチンとした当たりを要求されるが、対象が有機体であれば無理やり粉砕する破壊力ではなく、鋭い浸透性の打撃感覚、スポッと吸い込まれるような感覚が必要で、これは若しかしたら全ての破壊法の基本かもしれない。
     
  3. 転位(足運び)

    転位に関しては、勿論足で動かず身体で動けという事ですが、安定した移動の為には、足裏の床面との強い密着感覚が必要。然し、これは居着いた粘着性ではなく、常に瞬時に床面を把握できる、束の足捌きと極めの感覚です。単に前進のみの力と速度を要求されるのであれば、接地面積と接地時間は少ないほうが有利かもしれないが、時間・空間での自由度の多い動きを考える時、矢張り接地面を多くした安定性が必要。転位時の足運びに関してはより注意深く、極論すれば片足(後足)で立ち、他方の足(前足)は総てを探り、何時でも着地できる地表すれすれの状態で用いる事が肝要。吾等が空手の土台は、急激な走行では無く、緩慢な歩行が原点と考えた方が良い。
     
  4. 転体(軸の一致)

    転体に関しては、転位の感覚に乗り身体軸を重心線に一致させ、回転させる事でしょう。転位の遅れをこれで取り戻す感覚になると思う。遅馳せながら束で転体に移る。
     
  5. 転技(歪の解放・放出し)

    転技に関して、空手に於いては突・蹴と言う事でしょうか。この起こりは、瞬時に矯めた歪の解放から来る転体で、この出出しはデンデン太鼓か鞭の感覚、目標に対しては鉄砲玉ではなく誘導弾と考えたい。多くの突・蹴を見ていると、打出す初速度を大きくする事にのみ腐心し、到着したものが力尽きた状態で寸止る傾向が間々見受けられる。基本は「寸止め」又は「寸当て(勝手な造語)」であり、「寸止り」では無い。目標点では如何にも強力そうな突きも、それ以外の空間、経路の途中や尽きた点では、威力の無い存在になり兼ねない。特定の間隔以外で威力の無い技は、本質的に誤った理論・感覚の上にあるのかも知れない。

    競技等では、突の間が近過ぎるとか、引きが無いからとか、格技の本質を全く理解出来ていない判定基準があるらしい。

    結界という言葉を使わせて貰うと、自身の間とは、面ではなく実質の詰まった状態を求めたい。面を破られたら終わりではなく、内部まで充実した入込めない状態を確保する事が必要でしょう。これが解らなければ、基本組手も居捕りも理解できないかも知れない。

    柔術から発した空手は、柔術の感覚を意識しなければ理解が難しい。攻も防も、対象と接触した瞬間に威力を発揮出来る技法の突・蹴が必要です。
     

師からはよく言われました、文字を書く稽古は楷書・行書・草書の順ですよ!と、そして勿論文字の意味も理解していなければならない。空手での楷書は、基本・平安辺りでしょうか?これがきちんと出来ないと束も極めも難しい、型は出来ていても何処か可笑しい。失礼な表現ではあるが、一般論として西欧の人に漢字を書いて貰うと、何処か違和感がある。これは漢字の意味が理解されていない事と、これを音や記号との理解で、唯のグラフィック・デザインと扱い、筆順等も意識に無いからとも考えられそう。より極言すれば、猿や海獣に筆を扱わせ絵を描いたと観る感覚は誤りと見たい。ピカソやマチスの絵は、素描が確実な上に成立っている。塵芥の山を、自然の美と感じる主観は否定出来ないが、これを芸術とは考え難い、この混同が誤解を招く。いきなりセイシャン・チントウも良いが、基本・ピンアンもきちんと稽古をしよう。


 

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