1.格技は日常にある

2008/05/02 公開


 「遊戯」(遊び戯れる・戯れる)は、自然発生・本能的なもので、格技のより本源的・本能的な基礎訓練と考えられます。肉体的には相当厳しい内容を持ちますが、本能的な規制以外は自由奔放な、我を忘れさせる程の快楽なので、当人達は疲労困憊はしても、余り苦痛を意識しません。これに社会と言う認識が発生すると、遊戯の様な奔放さは失はれ、規制された日常の所作にも無事生きる技法が意識されてきます。これが遊戯から進化した、本能的ではない技法、「格技」の発生なのでしょう。

 個体が生存する事自体が限界に近い膨大な仕事を要する上に、人為的な技法を上乗せするには、強力な意思と多大な労力が必要なので、格技としての練磨は辛く、余り楽しくは無いと思います。これを継続するには、生活の中に必要な所作、仕来りとして織り込む事が抵抗は少ないでしょう。本来格技には、日常生活での社会性と言う意識以外の制約は存在しないが、この技法を社会により広く浸透・拡散させる為に、特殊性を意識させ非日常的な制約を設けた所で、「競技」へと変化して行きます。競技にはその目的の為に、多分に遊びの要素を詰込みますが、多彩な技法の特異的な部分に規制を設定された技法は、目的の社会に発散はするが、それに反比例して技法は限られた範囲に単純化され、初期の意識は薄れるでしょう。時と共に、規制はより多くなり自由度は減少、一段と隔離された社会として進化、到る所は勝敗の得点に対する執着に終始。格技としての心も技も希薄になり、本来のものは喪失への途を辿る。全ての事象は、細心の注意を払っていても、往々にして時の流れと共に変化し、本末顛倒して行きます。

 文学の世界では「不易流行」として、規制の無い世界なので如何なる表現も、基本的に意思伝達の目的は変わらないという事でしょうが、格技の世界では「不易」と「流行」は分けざるを得ません。此処での流行は、必ずしも不易なものの真にはならないことが多い様です。本質を考えると、己が弱いという臆病さから、負けない事を求める格技と、強い己を周知させ、満足を求めようとする競技は、全く逆の意識の原点になる様です。此処で前者は内秘する要素があり、後者は誇示するという行為から、社会的には収斂と発散の違いともなりそうです。逆に、技法とその伝承に関して、前者は多岐に亘り発散、後者は単一化されて収斂の方向性を持つ。前述の様に、本来格技には如何なる思想の社会であろうとも、社会性以外の規制が無い。然し、競技は社会体制に目標が発生し方向性が設定されると、より高度な体制の確立を遂げる意図の下で、それを具現化する一つの担手ともなり、社会構成分業化の一員として取込まれていく。現代日本の社会体制の中でも、その一員として競技部門?は、又遣る人・見る人・仕切る人の三者に分業化され、経済的な支配下に置かれる事になる。そこでの遣る人は、第三者から生命の保証をされていると勘違いした儘名声を追及し。見る人は、安全を保障された思考上の格闘に酔痴れ。仕切る人は社会体制の強い支持者として、理念もなしに下請け業者として邁進、此処では目標が自身の社会的立場を強めていく事に顛倒し。「格技の心」の存在は、難しくなる。総ての事物は時を経た後、多くは本来の目指すものとは似て非なる方向性の進化をし、本末は顛倒するのが倣い、そして制御し切れない怪物に変化して行く。

 内秘された「真」は、秘されているが故に、希求する人達は数多く居ることでしょう。然し、実際はその充満した中に居て、見出せないのが現実。空気中では空気が見えず、水中では水が見えない。却って遠くからのほうが、真の求められるものが感じやすいのかも知れないが、又触れなければ実態が掴めないのも事実。西欧の人達が意味も解らず(失礼!)、漢字に興味を持つのと似ているのかも知れない。その中で、当の日本人が碌に漢字の意味も解らず、片仮名横文字に現を抜かす愚は如何なるものかと考えながら、これと同質の現象が、格技の世界を席巻している現状も、諦めに近い気持ちで見ています。木を見て森を見ず、そして森を見てると木は見えず。地と図の関係で、騙絵の世界。健康な時には、健康の意識はない。足るを知らぬと、五里霧中。一寸的外れですが、此の世の事象は全て、不確定性原理に支配されているのだから、仕様が無いか!


 

風流空手目次に戻る