北大定期戦の思い出

テレビに二度出ました

昭和37年卒 黒川領平

 はるばる名古屋から小樽に来て空手部に入ったのは昭和33年ですからもう50年近くになります。今年が創部50年ということですから、同好会から部に昇格して間もない頃だったと思います。決まった監督もなく時々北大から指導に来てもらうような状態で、北大定期戦や全道大学大会の出場選手5人揃えるのにも苦労したほどです。当時はまだ私立大学の少ない時代で、全道大学選手権に出場したのは北海学園大学と酪農大学の2校だけだったと記憶しています。こんな時代の北大定期戦のことについて書いてみたいと思います。

 学校対抗の定期戦や対抗戦は、北の早慶戦として当時NHKの「日本紀行」に放映されるなど全国でも知る人ぞ知る存在でした。学生数が敵の10分の1に満たない程でしたら、競技の勝敗ほとんどの種目になりませんでしたが長くこの行事が続けられたのは、旧制高校(高商)以来つづく応援団の対面式が関心を呼んだのでしょう。肩まで伸びる長髪、ボロボロ羽織袴、一尺余りもある高下駄を履いて読み上げる挑戦状は、笑いと、既に経済大国として歩きはじめた日本にある種のノスタルジーを呼び戻したのでしょう。初夏の風物詩として昼のローカルテレビのニュース放映されましたし、当時はまだ有った日曜日の夕刊のコラム欄に載ったものです。

 あれは私の2年の夏の北大で行われた定期戦のことでした。1年上に人がいなく、2年で主将になった私は、正門に入ってすぐ右の横から突っかい棒で支えなければ倒れそうな古い体育館に意気揚々で乗り込みましたが入学したての者も含めなければ、メンバーも揃えられない程でしたので勝負になりませんでしたが、せめて大将戦で一矢報いたいとひたすら家康の首を狙う真田幸村の気概で臨みましたが、結果ははやる心ばかりで力が伴わず、トボトボと帰路につきました。丁度昼近くになっていましたので北大正門前の今もまだ残っているかどうか判りませんが中華風大衆食堂に入りました。座ってふと上を見ると入口の天井近くの架台に置かれたテレビに、何やら白衣を着た美青年の横顔が写っていました。当時のテレビは小型で白黒、また二重写しもあって最初は良く見えなかったのですが、はっと気付いてもう一度よく見るとほんの先刻まで試合場にいた私の姿ではないかと気がつきました。そういえば横で脚立をかかえた男がウロウロしていたがあれがテレビ局の人間だったのかと思いました。当時は現場から直接送信する技術もなく、撮影したフィルムは急いで持ち帰ったものでしょう。翌々年4年になったときも北大で行われ横に脚立を持った男達の姿が見えました。この放映は見ませんでしたが、どこかのテレビ局から放映されたものと思います。

 ところでこのテレビ放映、定期戦では、野球を始め柔道・テニス等花形種目が他に沢山あったのですが、なぜ空手会場にテレビ局は来たのでしょうか。

 残念ながら残りの紙面が少なくなりました。機会がありましたら次回刑事クロンボがこの謎を解き明かします。


 

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